お城解説
室町時代の越中守護は三管領の畠山氏であったが越中には来任せず、東部を椎名氏、西部を神保氏を守護代として治めさせており、富山城は天文12年(1543年)頃に神保長職(じんぼう ながもと)が、家臣の水越勝重(みずこしかつしげ)に命じて築城したとされる。
その後、神保長職は永禄3年(1560年)、上杉謙信により富山城を追われ、富山城は上杉氏と一向一揆の争奪の的となったが、天正6年、神保長職の子とされる神保長住が織田信長の後ろ盾を得て富山城に入城した。しかし、天正10年(1582年)3月、長住は上杉方に内応した家臣に背かれて城内に幽閉されて失脚し、替わって富山城主となったのが、織田信長の重臣佐々成政である。
成政は、富山城を大改修を行ったが本能寺の変を機に豊臣秀吉と離れた佐々成政は、天正13年(1585年)8月、秀吉自ら率いる10万の大軍に城を囲まれ降伏し(富山の役)、富山城は破却された。
越中一国が前田家に与えられると、前田利長が大改修を行い金沢城から移り住み隠居城としたが、慶長14年(1609年)に建物の主要部をことごとく焼失したため、高岡城を築いて移り、富山城には家臣の津田義忠が城代として入った。後、越前の国は結城秀康に与えられ、秀康は家臣の今村盛次を城代とする。
寛永16年(1639年)、加賀藩2代藩主前田利常は、次男利次に10万石を与えて分家させ、富山藩を立藩。後に富山城を居城とし万治4年(1661年)、富山城を本格的に修復し、また城下町を整え、以後富山前田氏13代の居城として明治維新を迎えた。
明治4年(1871年)廃藩置県により廃城となり、翌年建築物は払い下げられた。昭和29年(1954年)鉄筋コンクリート構造による模擬天守が建てられ、通称「富山城」と呼ばれることになった。