本能寺の変
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本能寺の変が起こる時代背景
織田信長は、天正10年(1582年)までに京を中心とした畿内とその周辺を手中に収め、天正10年3月に武田氏を滅ぼし天下不武に向け邁進していた。関東の北条・東北の伊達は、
信長に恭順の意思を見せていたため目下の敵は、中国の毛利氏、四国の長宗我部氏、北陸の上杉氏、九州の島津氏となった。
しかし中国の毛利氏は、織田軍団の将である羽柴(豊臣)秀吉の猛攻により西へ後退し始め、勢力を弱めつつあった。武田信玄と幾度も戦いを続けた、上杉家も当主である謙信死去によって家督相続の内紛が起こり、
著しく戦力を削いでいた。
四国では、信長の重臣である丹羽長秀の補佐を受けた織田信孝が長曾我部氏との戦争準備を始めており、有利な情勢にあり、九州は大友氏や龍造寺氏が信長に属する意志を伝えており、島津氏は単独で信長に対抗せざるを得ない情勢であった。
このように信長は、各軍団長を各勢力に向け派遣しており、信長が天下を手中にするのは、時間の問題であったのである。畿内は、完全に信長が制圧していたため、信長は少数で移動しておりこのことからも天下統一に楽観的な見方があったように思える。
こうした中、中国地方で毛利と対峙していた羽柴秀吉から信長の下へ援軍要請の依頼が入る。この報せに信長は、徳川家康の接待(長年の武田との戦いの労を労う為に家康を招いていた)をしていた明智光秀に、急ぎ居城である丹波亀山城に戻り、
兵を集め秀吉の援軍に向かうように天正10年5月17日に命令を下す。信長自身も自ら秀吉の援軍に向かうため5月29日に僅かの兵を連れて本能寺に移動する。同日、信長は本能寺に到着し軍勢の集結を同地で待つことになり、嫡男信忠も京都の妙覚寺に入った。
6月1日夕に明智光秀は、丹波亀山城を1万3000の兵を率いて出陣、翌2日未明、京都府の桂川を渡った所で本能寺方面に方向を変更した。この時点で信長襲撃を知らされていたのは、一部の重臣のみで下級家臣には、徳川家康襲撃と知らされていたとする説が有力である。そして2日早朝には、本能寺を完全に包囲する。
物音に気が付いた信長が近習に様子を探らせそこで光秀による謀反と判明、信長自身も槍と弓で抵抗したが程なく女衆を逃がし、奥に篭り火を放たせ自刃した。遺骸は見つかっていない。ちなみに嫡男信忠も二条御所で自刃している。
信長は、近衆達から逃げるよう言われたが相手が光秀であれば不可能であるとし、戦い自刃したとされる。
本能寺の変の影響
この戦の最大の影響は、天下統一を目前にした織田信長の突然の死によって起きた急速な下克上である。明智光秀がなぜ謀反を起こしたのかについては、諸説あるが全くわかっていない。そして管理人もここでそれを論じるつもりはない。
しかしながら言える事は、この戦によって織田軍団の序列が完全に崩壊し、一軍団長の羽柴秀吉が急激に力を伸ばした。言い方を悪くすれば下克上である。本能寺の変前の序列では、管理人の考えでは織田信忠が跡継ぎであり、
その下に柴田勝家(北陸方面軍団長)・滝川一益(関東方面軍団長)・明智光秀(畿内方面)が同列におり、羽柴秀吉(中国方面軍団長)等がいたのだと考えてる。
その意味では、本能寺の変により光秀が政権を取り続けられることも考えられた。しかし結果はご存知の通り、羽柴秀吉が政権を握った。関ヶ原の戦いの項でも書いたが何事も準備が必要である。特に大きな変革の戦には、絶対必要である。
この戦は、準備が無いに等しい。
それもそのはず、光秀が信長に秀吉の救援に向かうよう命令されてから本能寺の変まで2週間も間が無い。この命令は、突発的なことであり光秀は短期間で信長襲撃を決意したと容易に推測ができ、1万3000もの兵を10日余りで用意をしているのからもわかるように根回しの余裕も準備も無きに等しい。
そして本能寺の変の直後、光秀の与力であり娘婿の細川忠興にさえも理解を得られず結果、10日余りで羽柴秀吉に敗退してしまうのである。この戦があったことにより、新たな新しい政権が生まれた。秀吉は信長の意思を受け継ぎ天下を統一する。
ここでは、そのことについて触れないが信長が死去したことにより、時代は戦乱から統一へと動き出したと言える。織田信長という人物は、戦乱の時代には無くてはならなかった。戦乱の時代は、革命的な実行力で強引に推し進めないと動かない。しかしそれだけでは、その後長続きはできない。
「織田がつき、羽柴がこねし天下餅、座りしままに食らう徳川」。明智光秀は、天下という風に踊らされたのではないかと管理人は思う。
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