お城解説
中国・山陰地方で9カ国120万石を領していた毛利氏は、1589年(天正17年)、今までの吉田郡山城では、手狭で安定した世には、不向きとし広島城の築城を開始した。
城の構造は大坂城を参考とし、近世城郭として築城された。
関ヶ原の戦いの後、1600年(慶長5年)に西軍の大将であった毛利輝元が37万石に大減封の上、
萩に移動になり代わりに福島正則が入城する。
その後福島正則は、広島城の改修をするが幕府に無許可で改修をしたとされ改易される。
以降、和歌山から浅野氏が入り以後、明治維新まで浅野氏がこの地を治める。浅野藩政時代の広島城は内堀・中堀・外堀のある約1キロメートル四方の
広大な城であったといわれるが1911年(明治44年)に外堀が埋められ、さらに長らく旧制の国宝として保存されていた多くの建造物と大天守は、原爆で倒壊し瓦礫で中堀が埋められ現在の規模になった。
毛利輝元が在城時代の広島城は、大阪城に匹敵する規模であったと言うが現在でも詳細はわかっていない。尚、別名鯉城と呼ばれる所以は、広島市西区己斐の地名が昔は、鯉と書いていたことからという説が有力である。