お城解説
松山市の中心部、勝山(城山)山頂に本丸、西南麓に二之丸と三之丸を構える平山城である。日本三大平山城で山頂の本壇にある天守(大天守)は、現存12天守の一つである。
1602年(慶長7年)、伊予国正木城の加藤嘉明が、関ヶ原の戦いでの戦功により20万石に加増され、平山城の築城に着手し松山と命名した。1627年(寛永4年)、嘉明は、松山城の完成前に会津藩へ転封となり、蒲生忠知(蒲生氏郷の孫)が、24万石の松山藩主になる。1635年(寛永12年)7月に松平定行が15万石の藩主となり、松山城に居城。1642年(寛永19年)、創建当初5重であったという天守を、定行が3重に改築する。以後、明治維新まで松平家が松山を治めた。
廃藩置県後、本丸一帯を聚楽園という公園とするが1933年(昭和8年)松山城放火事件により大天守を除く本壇の現存建築を焼失してしまった。1950年(昭和25年)大天守以下21棟の建造物について、重要文化財保護法により国の重要文化財に指定される。