お城解説
1478年(文明10年)頃、地元の豪族であった成田正等・顕泰父子がこの地を支配していた扇谷上杉家に属する忍一族を滅ぼし、築城したといわれている。翌年、扇谷上杉氏に攻められるが扇谷上杉氏の家老である太田道灌の仲介によって和解し、以後成田氏が領する。
北条氏の勢力が関東に及んでくるとこれに反発し、北条氏康が責めてきたときもこれを撃退している。1559年(永禄2年)、上杉謙信が関東に遠征してくると、成田氏はこれに恭順した(後に離反)。
1590年(天正18年)、豊臣秀吉による小田原征伐小田原征伐の際、城主・成田氏長は小田原城にて篭城。この時の豊臣方の忍城攻めの総大将は石田三成で彼は、総延長28キロメートルに及ぶ石田堤を建設し忍城を水攻めにしたがついに城は、落城しなかった。この時の出来事から忍城は、忍の浮き城という別名をもつようになった。
徳川家康の関東入部後は、家康の四男の松平忠吉が忍城に配置され、以後、譜代大名が入り忍藩10万石の政庁となった。廃藩置県を経て廃城となり、建造物はほとんどが撤去された。昭和に入ると御三階櫓が外観復元された。