小田原征伐
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小田原征伐が起こる時代背景
北条氏は、初代早雲から5代、約100年に渡って関東一円を所領とする戦国大名である。その所領は、最大240万石まで達していたとされ、居城である小田原城は、総延長9キロメートルの土塁と空堀で取り囲んでおり当時最大規模の城郭であった。
北条氏は、当初今川・武田と三国同盟を結んで越後の上杉氏と戦闘を繰り返しながら関東の地盤を磐石のものとしており、今川義元が桶狭間の戦いで敗れ、武田との同盟崩壊後に武田氏が滅んだ後、関東平定にまい進していた。本能寺の変で織田信長が死去した後織田家とは、断行し甲斐・信濃・上野の武田旧領を巡って徳川家康と戦い、後に和睦し家康の娘・督姫を北条氏直に嫁がせ、甲斐と信濃は徳川、上野は北条が領有することに決定した。
徳川家康と同盟を結んだことによって全軍を関東に集中することができるようになった北条氏は、北関東に軍勢を集中させることになる。下野の各城を瞬く間に落とし、奥州の伊達政宗と同盟を結び関東平定は目前にせまった。しかし、常陸の佐竹義重が豊臣秀吉に近づいたことにより豊臣政権もいっそう北条氏に警戒感を強めていった。
そんな折に北条氏と真田昌幸の間で領土紛争が勃発する。この時は、豊臣秀吉による仲介で治まったのだがほどなく北条氏の兵が真田領である名胡桃城を占拠するという事件が起こる。これに対して豊臣秀吉は、北条氏の惣無事令違反として全国の大名に北条氏討伐の命令を下し、1589年(天正17年)12月13日、宣戦布告の朱印状を以って陣ぶれを発した。
北条側は、八王子城、山中城、韮山城に兵を集め、箱根山を城砦化し約8万2000人で豊臣連合軍の来襲に備えた。一方、豊臣側というと徳川・前田・小早川を始め主だった武将を率いてその数21万人と言う圧倒的な兵力もって小田原に向かったのである。当初、北条側はゲリラ的な戦いをし、豊臣側の膨大な兵糧を焼いたり一定な成果をあげていたが1590年3月
27日に秀吉自らが沼津に到着すると瞬く間に北条側の諸城を落とし、北条家の本城である小田原城に迫った。
ここで豊臣秀吉は、諸将に余裕をアピールするため石垣山に石垣山一夜城を築き、千利休や、淀殿ら愛妾を呼んでの大茶会などを連日開いた。小田原城を篭城攻めにして兵力をそぐと共にその間にも関東の支城を確実に落としていき、着実に北条氏の兵力を削っていった。篭城が長期化してくると北条側にも謀反者が続出し北条側は、降伏と徹底抗戦で揉め、ついに7月5日北条家の当主氏直が降伏の使者を徳川家康を窓口に派遣した。
7月7日には、片桐且元と脇坂安治、榊原康政を検使とし、小田原城受け取りに当たらせ、主戦派であった前当主である北条氏政と氏政の実弟である氏邦は、切腹し当主である氏直は、徳川家康の娘婿であったため助命され、紀伊国高野山に追放された。こうして北条征伐は、豊富側の完全勝利で幕を閉じた。
小田原征伐の影響
この戦いでの最大の影響は、この戦をもって豊臣秀吉が天下を統一したことにある。1582年に本能寺の変によって織田信長を失ってから、8年ごしで信長の天下布武の夢を秀吉がかなえたことになる。これまで秀吉は、全神経を西に向けてきた。東には、苦労して臣従をさせた徳川家康が目を光らせているのでひとまず安心だったからである。
中国の毛利氏、四国の長曽我部氏、九州の島津氏を次々に臣従させた秀吉は、西に脅威を感じることがなくなり関東・東北を攻略する機会をうかがっていた。中・小規模大名は、戦わずして秀吉の軍門に下るが秀吉の威に屈しない大名家が2家あった。1家は、関東240万石を有する北条家、もう1家は奥州で約120万石を有する伊達家である。特に関東の北条家は、秀吉の本城である大阪城に勝るとも劣らない堅城小田原城を本拠としていた。
北条家は、関東に約100年根ざしており名門としての誇りと箱根山を天然の砦とした小田原城という名城があったために秀吉に面と向かってはむかう愚行を行ったのだと管理人は思う。北条氏直は、徳川家康の娘婿であったために再三、家康から秀吉に対して臣従の忠告があったのは、想像に難くない。そして北条家は、日本有数の大大名であることから情報網も整備されていたと考えられるため秀吉に対しての情報はあっただろう。
そのような条件であるのに戦いを挑んだのには、先に書いたような驕りから秀吉の人物をかなり過小評価したのだろうと考えるのが順当であろう。そして、絶好のタイミングで北条方が真田家の名胡桃城を占拠したことが注目である。秀吉が仲介して決めた条件を北条自ら破り、わざわざ秀吉に宣戦の口実を与えてしまったと言える。裏を返せば秀吉に都合が良すぎるので秀吉がそうなるようにしむけたのではないかともとれる。
この合戦で秀吉は、自分が天下人であることを強調している。まず秀吉が臣従させた大名をことごとく動員し、その働きで忠誠を見せろと暗にしめしている。そしてその総勢が21万もなると臣従したばかりの大名は、秀吉の権力を自ら目にし威圧される。戦いの最中であるにも関わらず秀吉が小田原城の目と鼻の先に城を作ってしまう。さぞ大名達は秀吉のあまりにも大きなスケールに驚き、忠誠を誓ったであろう。
結果、北条家は篭城の末に降伏、奥州の伊達を始め東北の諸将も戦わずして秀吉に臣従をした。あたかも北条という大名を餌にして家臣全てに対して威圧し且つ忠誠を強固のものとさせ、東北もついでに奪い取ってしまったといえる。この戦は、秀吉が真の天下人になるために天が与えたものでさえ思えるほどである。この戦で秀吉は、全国を統一したのだがこの後、国内に敵が居なくなったがために海外に敵を求めたともいえるのでその意味でもこの戦は、大きな意味を持つと考えられる。
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