お城解説
1559年(永禄2年)、足利義輝によって築かれ政庁として機能したが松永久秀と三好三人衆に襲撃され義輝は殺害され、
二条城も消失した。1569年(永禄12年)、織田信長が足利義昭の為に義輝の二条城の跡地にさらに防備の整った二条城を築いた。
しかし義昭と信長の関係は徐々に悪化し1573年(天正元年)3月に義昭は二条城において信長に対し挙兵する。一旦は、和議が結ばれたが再び義昭が挙兵し結果、信長軍に包囲され降伏そして御殿などは破壊された。
その後織田信長は、京都における宿所として二条新御所を建設したが本能寺の変
によって廃墟になった。信長没後に豊臣秀吉も城を構えており、聚楽第が建設されるまで使用した。関が原の戦い後、
徳川家康が京都での宿所として二条城を築城し、徳川秀忠・家光の将軍宣下が二条城にて行われた。
しかしこの時から230年間、将軍の宿所として使われなくなりこの間に落雷などで天守は焼失、建物は荒廃した。1862年(文久2年) 第14代将軍・家茂の上洛にそなえ全面的に改修された。1867年(慶応3年)10月に徳川慶喜により二条城で大政奉還の宣下がされる。
明治維新後も二条城は、国の管理下におかれ現在に至る。二の丸御殿は、国宝に指定されその後多くの建物が重要文化財に指定されている。