お城解説
津城は、江戸時代築城の名手である藤堂高虎によって近代城郭に大改修され、江戸270年間にわたり津藩の政庁になった。
中央に内堀で囲まれた本丸と、それに付属して東丸・西丸があり、本丸・東・西丸を取り囲んで二の丸が配された輪郭式の平城である。
この地域一帯は、古称を安濃津と言い、平安時代より伊勢国政治経済の中心地となっていた。鎌倉時代は、長野氏が支配しており津城は、戦国時代の永禄年間(1558年 - 1569年)に、
長野氏の一族の細野藤敦が安濃・岩田の両河川の三角州に小規模な安濃津城を構えたことに始まる。
織田政権時には、信長の弟である織田信包が入り5重天守と小天守を築城したといわれる。豊臣政権時には、富田氏が6万石で入城し関が原の戦で
東軍についたことで伊予宇和島藩に加増移封され替わって藤堂高虎が伊勢・伊賀22万石で入城した。
高虎は、加藤清正と並んで築城の名手として名が高く、津城の大改修に着手し輪郭式の城郭に変貌させ、城下町を整備した。
その後高虎は、大坂の役の功により伊勢・伊賀共に5万石づつ加増され32万3000石となりそのまま明治維新をむかえた。
江戸初期には、富田氏が築いた天守が存在したとされるが寛文2年(1662年)の火災で焼失し、幕府への遠慮から再建されなかったと考えられている。
津は江戸期を通じて伊勢神宮参拝の宿場町として栄え「伊勢は津でもつ津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城でもつ」と謡われた。廃藩置県により廃城となり、以後、建造物は破却された。その後、「お城公園」として整備され、昭和33年(1958年)に隅櫓が復元された。