お城解説
10世紀後半に郡山衆が雁陣の城を築いたという記録が郡山城の初見とされる。戦国時代に入ると郡山衆は、筒井氏や越智氏に属したりするが後に松永久秀が大和国に侵入してくると久秀軍に属するようになる。
その後、筒井順慶が織田信長の援助を得て、天正8年(1580年)11月大和国守護となると順慶は、郡山城に本拠を移し改修を始め、1581年(天正9年)から明智光秀が普請目付として改修を着手し、大規模な近世城郭として工事が開始された。
豊臣政権に入ると1585年(天正13年)豊臣秀吉の弟である豊臣秀長が大和国・和泉国・紀伊国三ヵ国100万石余の領主として郡山城に入る。秀長は城を100万石の居城に相応しい大規模なものに拡大した。秀長は、市を郡山城下に移し、郡山は100万石の城下町として賑わいを見せたが、1591年(天正19年)豊臣秀長が没し、その養子豊臣秀保も1595年(文禄4年)に急死すると、大和大納言家は断絶した。
その後、五奉行の一人増田長盛が22万3千石の領主として入城するが関が原の戦い後に長盛は高野山に追放となり、城地は奈良奉行所の管轄下に入った。その後、徳川家康は筒井一族の筒井定慶に1万石で入城する。しかし大坂冬の陣で郡山城は、大坂軍に攻められ、筒井定慶は落ち延びたあとに自害をする。
大坂城落城後、水野勝成が6万石で入城し、荒廃した城郭の修築を行った。しかし勝成は修復途中で備後福山に転封となった。その後松平忠明、本多政勝と城主が変わり城の改修も続けられ、城下の人口は2万人を超え、最盛期を迎える。その後松平、本多氏と城主が変わり、1724年(享保9年)に柳沢吉里が甲府城から15万石で封ぜられ廃藩置県まで柳沢氏が郡山を治めた。
1873年(明治6年)郡山城は破却された。このとき櫓・門・塀などの建築物は入札によって売却され、運び去られたものの、石垣や堀の多くは今も往時の姿を留めている。