足利義輝
|
略歴
天文5年(1536年)3月31日、室町幕府の第12代将軍・足利義晴の嫡男として生まれる。
天文15年(1546年)12月、義輝はわずか11歳にして、父から将軍職を譲られ近江坂本にて将軍就任。天文17年(1548年)、義晴は細川晴元と和睦して京に戻る。
三好長慶、細川氏綱に裏切られ、この後何度も京都を追われては、坂本に逃げまた戻りを繰り返す。
三好長慶と和議を結び、義輝は、京都に戻るが三好長慶は、幕府の御相伴衆に加えられ、幕政の実権を握った。結果、義輝は単なる長慶の傀儡になってしまった。
永禄8年(1565年)5月19日、松永久秀と三好三人衆は、足利義栄を奉じて義輝の居城二条御所に軍勢を率いて襲撃し、義輝は殺害された。享年30才。
足利義輝とは
足利義輝は、歴代足利将軍でも名前を残した将軍である。彼は、応仁の乱の
真っ只中に生きた将軍で失墜した幕府権力を取り戻すため、生涯をささげ皮肉にも自身の死で下克上の起爆剤になってしまった人である。
彼の父、義晴の時にすでに将軍の権威は、失墜してしまい義輝は、11歳で将軍を継いでから死ぬまで三好長慶との戦いに勝っては、京都に戻り負けては、
近江坂本に逃げを繰り返していたとされる。
ただ彼は、この間にも将軍の権威を復活させるため様々なことをしている。その一つが伊達晴宗と稙宗、武田晴信と長尾景虎、島津貴久と大友宗麟、毛利元就と尼子晴久
などの戦国大名同士の抗争の調停を頻繁に行ない、諸大名に将軍の存在を知らしめた。
そして自分の名である「輝」の字を諸大名や足利一門の足利輝氏などに与えたりもしているのである。上杉輝虎(謙信)が京都まで来て義輝に拝謁したのは、有名である。
そして彼は、将軍の顔のほかにも上泉信綱(柳生新陰流の柳生宗厳の師)に教えを受け、塚原卜伝に奥義の伝授を受けた剣豪という顔をもっていた。
実際将軍が習う剣術のレベルではなく、一流を開く位の腕であったという。
ただ三好長慶としては、こうした将軍だからこそ邪魔であり、大人数で襲撃され殺されてしまうのである。この時、義輝は畳に刀を数本差し、敵を斬って刃こぼれしては、
新しい刀に変え死ぬまで戦い続けたとされる。
このことで足利義輝が歴代将軍の中でも特に覇気に溢れ、武士らしい将軍と讃えられている。しかし将軍が暗殺されたことで下克上が加速されたのも事実である。
総評
足利義輝は、生まれながら次期将軍であったが時は、応仁の乱の真っ只中。父である将軍が自分の居城にもいられない不甲斐なさから自分が流れを変えて見せると
感じて少年期を過ごしたのではないだろうか。
それならばより強くなるために剣術を学んだことは、もっともである。当時、著名な剣術家が権力者に招かれた剣術を学んだことはよくあった。
ただそれだけでは、一流を開くほどの腕前には到底なれない。
しかも将軍として政治をこなすをわけだからそちらの勉強もしなければいけない。もし伝説どおりの剣士であったら尋常でない剣の才能を持っていたのだろう。
彼は、将軍の復権のため様々な努力をして一時的にせよ将軍の威厳は復活した。後に戦国最強と謳われた上杉謙信がわざわざ拝謁をしに越後から上京していること
でもそれがよくわかる。
ただ優秀であったがゆえに暗殺されてしまい、それにより戦国の世が深まっていくのだから悲劇の人である。彼が一介の剣術家であればどうなっていたが見てみたい気がする人である。
|