加藤清正
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略歴
永禄5年(1562年)、鍛冶屋・加藤清忠の子として尾張国愛知郡中村にて生まれる。母・伊都が羽柴秀吉の生母である大政所の従姉妹(あるいは遠縁の親戚)であったことから当時、
近江長浜城主であった羽柴秀吉に小姓として仕える。
天正10年(1582年)に織田信長が死去すると、清正は秀吉に従って同年の山崎の戦い、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いに参加し「賤ヶ岳の七本槍」の一人として3,000石の所領を与えられた。
天正13年(1585年)7月、秀吉が関白に就任すると同時に従五位下、主計頭に叙任し天正14年(1586年)からは秀吉の九州征伐に従い肥後の半国のおよそ19万5,000石を与えられ、熊本城を居城とする。
文禄元年(1592年)からの文禄・慶長の役では、朝鮮へ出兵。慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると、五大老の徳川家康に接近し、家康の養女を継室として娶った。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、九州に留まり九州の西軍勢力を次々と破り肥後1国52万石の大名となる。
慶長10年(1605年)、従五位上、侍従・肥後守に叙任、慶長15年(1610年)、徳川氏による尾張国・名古屋城の普請に協力、
慶長16年(1611年)3月には二条城における家康と豊臣秀頼との会見を取り持つなど和解を斡旋したが、帰国途中の船内で発病し、6月24日に熊本で死去した。享年50(満49歳没)。
加藤清正とは
尾張の鍛冶屋の息子であったが織田信長の下で台頭してきた羽柴秀吉の親戚であったことから出仕がかない、秀吉の下で成長した文字通り秀吉の子飼いの武将である。
「賤ヶ岳の七本槍」と称される秀吉の子飼い武将の中でも同じく秀吉の親戚であった福島正則とこの加藤清正は別格であったと言われる。清正は、賤ヶ岳の合戦を始め九州征伐、
朝鮮出兵と秀吉政権での重要な合戦で多大な武功をあげている。特に朝鮮出兵では、薩摩の島津義弘と並び朝鮮民衆から恐れられた。
しかし清正は、武功だけではなく政治感に優れ治水事業に大きな功績を残しており、そのときの遺構が現在でも使用されているものも少なくない。肥後地方で多くの特産品を作り出し、
今日の熊本の発展の基礎を築いた。同時に築城事業でも優れた手腕を発揮し、築城の名手として藤堂高虎と並び称され名護屋城、蔚山倭城、江戸城、
名古屋城など数々の城を築城し、特に熊本城は日本一との呼び声が高い。後、明治期の西南戦争で熊本城に篭る政府軍を敗れなかった西郷隆盛が「結局、加藤清正に負けたと言うことだ」といったのはあまりに有名である。
関が原の合戦では九州の地を守り、肥後1国を任されてからは、熊本の治世に全力を傾け前述のような多くの功績を残し多くの民衆に慕われながら死去した。後に熊本に移ってきた細川忠利は、
清正の霊位を先頭にかざして入部し、熊本城本丸に登り、清正の祀る廟所がある本妙寺へ拝跪したと云われている。
総評
加藤清正は、知勇兼備の名将で難攻不落の熊本城を築城したことでも有名である。豊臣秀吉は、親族が極めて少ない人であった。その中で清正は、小姓から秀吉に使え、
秀吉の薫陶を受けて期待通りに成長していった秀吉の腹心である。
秀吉の薫陶を受けたことは、秀吉が得意であった治水・築城事業で特に秀でた能力を持っていたことでもうかがえる。秀吉の期待に答えようと毎日毎日働いた姿が目に浮かぶようである。
そんな清正がなぜ関が原の戦いで西軍ではなく、東軍についたのだろうか?
清正は、自分が率先して戦い部下はそんな清正を見て、この人だったらと全幅の信頼を得る今で言う体育会系であり、石田三成は、常に秀吉のそばで法と秩序を最優先し、
口だけの人間と考えており、そりが合わなかったようである。(しかし三成は、清正と同じように秀吉の事を第一に考えており、清正との立場の違いでそう見られるだけというのは清正もわかっていたと思うが・・・)
ただこれがある意味、清正の悲劇のはじまりであった。清正は、家康が後に秀吉の遺児である秀頼に天下を戻すと心底思っていたようである。ただ家康が将軍につき、息子の秀忠に将軍位を継がせたことで清正は、
自分の甘さを痛感するのである。それを端的に表すのが熊本城である。
熊本城は、それまでも清正の居城であったが家康が将軍になり、秀忠に跡を継がせるのがわかると清正は、大改修を始めている。数年の年月を要し出来上がった城は、
太平の世では考えられないくらい実用的な城であった。この間にも清正は、秀頼に度々拝謁し家康との仲を取り持っており、秀頼と家康の中が決定的になった時には、
秀頼を熊本城に匿い家康と戦うつもりであったと伝えられており秀頼の為に築いた城であるといわれている。
そんな清正が突如死去してしまう。この前後に豊臣恩顧の大名が相次いで死去しており、今日でも家康指示による暗殺の噂が根強く残る所以である。結果的に豊臣家に対して恩をあだで返してしまった清正は、
肥後を日本一裕福な場所にして秀頼を迎えて、秀頼を主に据え独立国家とすることを夢見ていたのではないかと管理人は個人的に思っている。
清正は、記録にも民衆の記憶にも大きな足跡をのこし、400年経った今でも熊本県民に清正公様(せいしょうこう)と慕われ絶大な人気を誇っているのである。
管理人おすすめの本
火の国の城
池波正太郎(著)
加藤清正暗殺の命を受けた家康配下の忍者と加藤清正の心意気に打たれ清正の為に働く甲賀忍びの戦いを描く。
清正の後半生を描いており、主人公は清正ではないのだが清正を軸に展開し、とてもおもしろい小説である。池波小説は、独立した小説といえど同じ人物が活躍する。
特に忍者は一貫しており、例えば主人公である丹波大介を始めとする忍びの生き様を見られる。やはり池波小説は、おもしろい
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火の国の城 上
火の国の城 下
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