お城解説
永正2年(1505年)に西三河で勢力を広げつつあった安祥城の松平長親もしくは、戸田宗光による東三河進出に備えるため、宝飯郡の長山一色城主・牧野古白が今川氏親の命により築城をしたのが始まりである。
その後、両家の争奪戦が続き城主は、めまぐるしく入れ替わった。享禄2年(1529年)には、西三河から松平清康(長親の孫)が進出し吉田城を攻略。しかし、天文4年(1535年)には清康が死去した後、城主はめまぐるしく交代する。
天文15年(1546年)に今川氏本軍が吉田城を陥落させた事で、今川家の直接支配に移行した。松平家が弱体化により今川家の支配下に置かれた後は、松平家の岡崎城を後方から支える重要地点になる。
しかし永禄3年(1560年)5月、今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に討たれると支配力が低下、永禄8年(1565年)に今川家から離反した岡崎城主である松平家康(徳川家康)により攻略され今後松平家の支配下に置かれる。
松平家康は、城代に重臣である酒井忠次を城代とし、吉田城を中心とし東三河4郡の諸豪族を統率させた。当初より、武田氏の三河侵入を想定しており、事実武田家が崩壊する時まで東三河衆の本拠として最重要拠点となり攻防が繰り広げられた。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉により家康が関東に移封されると、池田輝政が東三河4郡を統べる15万2千石の城主となり、城下町の大改築や吉田大橋(豊橋)の架け替えを行った。11年にわたる大工事であったが輝政は、関ヶ原の戦いの後、播州・姫路に加増移封された為、城郭全ては完成しなかった。
徳川政権下で吉田城は、東海道の重要拠点のひとつであったため5万石前後の松平家、水野家等の譜代大名が頻繁に入れ替わり、それは見明治維新が起こるまで続いた。維新後は、多くの建造物が焼失し、第日本帝国の軍施設が入った。現在は、豊橋公園として整備され、旧本丸後には1954年(昭和29年)に隅櫓(鉄櫓)が模擬再建された。