桶狭間の戦い
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桶狭間の戦いが起こる時代背景
応仁の乱から約百年が経ち幕府の権威はわずかになり、全国には多くの戦国大名と呼ばれる領主が台頭していた。戦国大名は大きく3つにわかれており、一つは甲斐の武田家のように旧守護の家柄の者、
一つは越後の上杉謙信のように旧守護代の者、三つ目がその他で例えば美濃の斉藤道三のように浪人から成り上がった者である。
この戦いの当事者の織田信長は旧守護代の家柄で前年に尾張守護の斯波氏を追放し尾張を手中にしたばかり、一方の今川義元は、駿河の守護職の家柄でしかも今川家は、
足利家の一門で足利将軍家を継承する権利を有する名門中の名門である。
この時代いくつかの強大な戦国大名が存在していたが特に有名なのがほぼ関東全域を有する北条家、甲斐の国を治める武田家、越後を治める上杉家、駿河・遠江・三河を治める今川家である。
そして武田・今川・北条の3家は互いに3国同盟を結んでいた。
この3家で今川家は、優位なポジションにいたと思われる。武田家と北条家は、上杉家に対して常に気を配っていなければいけなかったのに対して今川家は、
北条・武田以外には対抗できる大名がいないため回りを気にすることなく西に侵略を続けることができ、尾張を統一し東海を全て手中にすることができる。
織田家と今川家は、長年三河と尾張の国境地帯の支配を巡り、
戦闘を繰り広げていた。この戦いの中で西三河の松平家を手中に収めた今川家が当初優位に進めていたが尾張を完全に手中に収めた織田家が次第に形勢を逆転させ始めた。
これを見かねた今川義元は、永禄3年(1560年)5月12日、自ら大軍を率いて駿府を発ち、尾張を目指して東海道を西進したのである。5月17日、織田家との戦闘の最前線である沓掛城に到着した今川義元は、
翌日松平元康を先攻させる。19日、元康が織田家の城に攻撃を開始したそのさなか織田信長は、熱田神宮で戦勝祈願をする。そして信長は、最前線である善照寺砦に入っておよそ2,000人といわれる軍勢を整えた。
同日13時ごろ突如一帯に豪雨が降ったといわれている。総勢25000人とも言われる軍勢も方々に戦力を分散させており、しかも義元の本陣を守っていた6000人の兵は戦いに不慣れなものばかりであったと言われる。
(精鋭は、最前線に出ていた)雨が止んだ14時ごろ信長は、2000人の兵と共に義元の本陣を奇襲し、乱戦の末毛利新助に義元の首がとられ大将を失った今川軍は、壊滅し織田軍の大勝利に終わったのである。
桶狭間の戦いの影響
桶狭間の戦いは、織田信長が畿内統一を目指す大きなきっかけになった戦いである。その意味でこの戦いが与えた影響は極めて大きい。事実この戦いの後、急速に時代は変化していった。
この戦いで織田信長の名前は、瞬く間に全国に知れ渡った。尾張の20代半ばの若者が当時最強国の一つである今川家に完全勝利したのである。全国の大名は、
否が応にも彼の一挙手一投足に注目してしまい、彼が自領に近づくにつれ恐怖を覚えるようになるのである。
そして戦いの勝利によって信長自身にも大きな変化をもたらしたと管理人は考える。それは、信長が大きな自信を手に入れたことである。信長は、革新的な人物でそれは数々の功績として残っている。
しかしこの戦の前には、信長に疑問を持つ家臣が大勢いたと推測する。それは、彼の行動・考えが時代の先を行き過ぎていたため誰もついてこれなかったのである。
しかしこの戦いに勝利をしたことにより家臣は、信長の行動に疑問を持たなくなった。同時に信長自信も自分の行動に疑いを持たなくなり、自分の信念を貫くことができたように思うのである。
戦いに敗れた今川軍は、主要な武将がことごとく討ち死にをしてしまい、急速に没落をしてしまう。今川配下であった松平元康は、
空になった岡崎城に入り地盤を固めると共に織田信長と同盟を結び三河統一にまい進していく。以後東に脅威がなくなった信長は、数々の革新的な新しい風を吹かせながら隣国美濃に攻め入り、
近江そして畿内制覇、天下統一の道を歩んでいくのである。
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