池田輝政
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略歴
永禄7年(1564年)12月29日、織田信長の重臣・池田恒興の次男として尾張国清洲(現・愛知県清須市)に生まれた。天正8年(1580年)の花熊城の戦いの
軍功により信長から感状を受ける。天正10年(1582年)、本能寺の変で信長が明智光秀に殺されると、父兄と共に羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)に仕える。
天正11年(1583年)、父が美濃国大垣城主となると、輝政は池尻城主となり天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで、父と兄が討死したため家督を相続し、
美濃国大垣城主13万石、ついで岐阜城主13万石を領する。その後も紀州征伐・越中征伐・九州征伐など秀吉の主要な合戦の大半に従軍し、小田原征伐後の天正18年(1590年)には、
東三河において15万2000石に加増され、吉田(現・愛知県豊橋市)城主となった。
文禄3年(1594年)、秀吉の仲介により徳川家康の娘である督姫を娶り秀吉死去後に急速に家康に接近する。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは徳川方として従軍し戦後には、
播磨姫路52万石に加増移封される。
慶長6年(1601年)から慶長14年(1609年)にかけて姫路城を大規模に改修すると共に他の西国大名達と名古屋城
等の天下普請にも参加している。慶長17年(1612年)、正三位参議、および松平姓を許され姫路宰相と呼ばれた。慶長18年(1613年)1月25日に姫路にて急死・享年50。
池田輝政とは
池田輝政の父恒興は、織田信長の乳兄弟(乳母が同じ)であるため池田家は、織田家中で高い地位だったと考えられる。そして輝政は、信長死去後の葬儀で羽柴秀勝
(織田信長の四男で、秀吉の養子)と共に信長の棺を担ぎ、若くして池尻城主として任せられている点で輝政の実力が高かったことが伺える。
その後、豊臣秀吉と徳川家康の間で起こった小牧・長久手の戦いで父と兄が戦死したことによって父の遺領を継ぎ輝政個人の実力が試されるようになる。
しかしその後も秀吉の主要な戦いに従軍し着実に禄高を増やしており、従四位下侍従、および豊臣姓を許され豊臣一族に準じて遇されている事から秀吉に重宝されていたことがよくわかる。
そればかりか秀吉自ら仲介して、当時秀吉に次ぐ実力者とされていた徳川家康の次女督姫を継室としていることから輝政の実力は諸大名にも高く評価されていたのだろう。
この婚姻で家康と堅い絆ができた輝政は、秀吉死後には武断派の一員として福島正則・
加藤清正らと同じく急速に家康に近づく。そして関ヶ原の戦い
でも福島正則にも劣らない大功をたて姫路52万石の大領を得るのである。現在に残る姫路城は、家康の命により輝政が大改修を行った結果であり、
西国の豊臣恩顧の大名をけん制するのと同時に大坂の豊臣家を見張る役目を担っており池田輝政に対する徳川家康の信頼の大きさが容易に想像ができる。
その後も正三位参議に叙任し外様にも関わらず松平の名乗りを許されており、次男・池田忠継の備前国岡山藩28万石
・三男池田忠雄の淡路国洲本藩6万石・弟池田長吉の因幡国鳥取藩6万石をあわせて一族で92万石の大領を預かり西国将軍と呼ばれ明治に至るまで池田家が繁栄する基盤となった。
しかし慶長18年(1613年)姫路にて50歳で急死する。この突然の死は、秀吉の呪いであると噂になったと言われている。
総評
池田輝政は、それほど注目されない人物だが結果から見れば高い実力と大きな運を持っている大名だと管理人は考える。もちろん運を活かすも殺すも自分の実力しだいなので彼の力量が他の武将より高いことは明白である。
しかし織田政権下での輝政は、重臣池田恒興の息子であるが嫡男ではないので恒興の支城を任されるのみであり、豊臣政権下でも豊臣一族に次ぐ待遇ではあるものの5大老・5奉行・3中老に数えられてはおらず政権の中枢にはいない。
ただ彼には要所要所で幸運がめぐってきている。まず一つ目の運が織田家の重臣・池田恒興の次男に生まれたことである。輝政は、池田家の嫡男ではないがもしもの時に備えてしかるべき教育を受け、
数々の戦闘にも参加し若い頃から大軍を預かる将としての考え方・指示の仕方等を実践の中から学んでいたと想像する。
2つ目が戦にて父と兄が同時に死去してしまい本家を継ぐ事ができた運である。これで13万石という自分の領地をもつことができたのである。大抵嫡男以外の男子は、嫡男の補佐につき本家から領地を分けられるのが常である。
もし完全に独立をしても本家の領土を超えることは、かなり難しいことである。
3つ目が秀吉から丁重に扱われたことである。父恒興は、織田信長の乳兄弟であることから幼いときより信長の側にいたことは明白である。秀吉にしてみれば恒興は、大先輩であり信長亡き後に織田軍団の重臣の中で秀吉を擁護した事実がある。
その人物の息子であり輝政自身に器量もあれば秀吉が大事に扱ったのは頷ける。
そして最大の運が徳川家康の娘を妻としたことである。外様大名で家康の養女を妻とした大名は、数名居るが実の娘を妻としたのは、輝政と浅野長晟だけである。これにより家康との絆が強固になりその後の栄達につながるのである。
福島正則・加藤清正始め多くの豊臣恩顧の大名が家康側に付いたが彼らとは、心境が全く違ったであろう。なにしろ家康は、義父であり義父に味方をするのは、当然と言えば当然であると言えよう。
輝政と督姫との仲は良く督姫との間に5男2女を得た。この事で池田一族は江戸幕府260年の間、繁栄を続けるのである。ちなみに長男池田利隆は、輝政前妻との間の子で姫路藩と宗家を継いだのだが督姫の息子が家康の孫と言う事で家格の逆転現象が起こってしまい、
後に領地入れ替え等のいざござが起こってしまう。しかし輝政自身は、幸せな一生を過ごしたと管理人は思う。
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