戊辰戦争
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戊辰戦争が起こる時代背景
関が原の戦いから約270年、そして江戸時代に起きた最後の動乱といわれる島原の乱(1638年)から230年の長い時を経て起きた戦である。
この戦は、鳥羽・伏見の戦いから函館戦争までの一連の戦を総称して「戊辰戦争」としている。
ことの発端は、1853年にアメリカからペリーが4隻の黒船を率いて来航したことから始まる。しばらくして黒船の圧倒的な力の前に幕府は、次第に弱腰になり始め次々と不平等な条約を締結し開国に向けての舵を取り始めるのである。
しかし270年間鎖国を守り続けたことにより、開国に反対する者も多くその象徴が天皇をはじめとする公家であり、毛利家の長州を始めとする雄藩であった。
この中で幕府内部では、相次ぐ将軍の死去が加わり混乱の一途をたどっていたが一つの妙案を実行に移すのである。それは皇室を取り込むことであり、具体的には時の天皇である孝明天皇の異母妹である和宮を14代将軍家茂の正室にむかえることであった(公武合体)。
このことにより将軍家は、異国を排除することを天皇に約束し混乱は収束に向かうかと思われた。
しかし、それでは収まりがつかない長州藩が幾度も反乱のそぶりを見せたことにより天皇がいる京都を警護するため「京都守護職」を創設しその役職に会津の松平家を任命した。このことにより必然的に京都に政局の中心が移っていき、
まもなく将軍家茂自身が上洛をするのである。ここで将軍警護として上洛をした一部が後に新撰組として名をはせる面々である。
この後長州藩は、単独で英・仏・米と下関戦争(1863年)を起こし、ここで攘夷の無謀さを知った長州は、弱体化した幕府を倒して新たに諸藩が連合して異国から日本を守るという思想を大義名分にし倒幕に傾倒していく。
これを討伐すべく将軍家茂が全国の諸大名に号令をし第一次長州征伐(1864年)を実行に移すが結果的に討伐にはいたらなかった。
翌年、将軍家茂は再度長州征伐を決意し、大阪城に入るが病により死去してしまう。後を後見職であった慶喜が継ぎ長州征伐の準備は進められた。時を同じくして隠密裏で、
長州と犬猿の仲といわれた薩摩が坂本龍馬の仲介によって手を結ぶ(薩長同盟)という大事件が起こる。これは、長州と同じように薩摩がイギリスとの間で薩英戦争を起こしており西欧列強の実力を十分に理解していたことと薩摩の西郷隆盛と坂本龍馬の英邁さが大きく寄与している。
そのことにより薩摩から大量の武器が長州に流れており長州の軍備は充実していった。これを知らずに幕府は第二次長州征伐を起こし結果的に完全敗北を喫するのである。この敗北で幕府の威信は完全に地に落ちてしまい幕府は劣勢に立たされる。
そして反幕府の大儀を失わせ無用な戦いをしないように将軍慶喜が大政奉還をして天皇に政権を返すに至るのである。
これに対し薩長を中心とする倒幕派は、幼い明治天皇を利用し王政復古の大号令を発し、旧幕府を揺さぶりついに鳥羽・伏見の戦いを引き起こさせる。この戦では、共に一進一退を繰り広げたが将軍である慶喜が江戸に逃げてしまったことにより士気が著しく低下し、
旧幕府軍の敗北に終わる。西国諸藩を中心に新政府に恭順する藩も出る中、江戸にて再起を図るもの・自領にて再起を図るものも多く、戦いの舞台は関東以北に移っていった。
新撰組の近藤勇らが率いる旧幕府軍が甲府城を落として再起を図ろうとしたが敗北し(甲州勝沼の戦い)ついに新政府軍は江戸への進軍を開始した。しかしここで旧幕府軍の勝海舟と新政府軍の西郷隆盛の話し合いにより江戸城無血開城が実現し江戸を火の海にすることは免れた。
将軍家菩提寺である上野の寛永寺には、徹底抗戦派である彰義隊4000人がいたがわずか1日で新政府軍に鎮圧された。(上野合戦)
東北諸藩では、京都守護職で朝敵にされた会津藩に対する同情論が高く、仙台藩を始めとする計31藩による奥羽列藩同盟が締結された。この31藩で実に日本列島の半分を支配していたため事実上の南北戦争という様相となった。ただ同盟藩も必ずしも一枚岩ではなく、
内情は新政府派と旧幕府派に分かれており会津藩が降伏をすると相次いで新政府軍に降伏をした。
旧幕府軍の残りは、北海道の函館にたどり着き北海道を支配下におき、ここで榎本武揚を総裁、土方歳三らを幹部とした「蝦夷共和国」が成立した。土方歳三が指揮した旧幕府軍は、連戦連勝を重ねていたがついに五稜郭にいる榎本武揚が降伏し、
約1年半にわたる戦いは新政府軍の勝利で終結したのである。
戊辰戦争の影響
この戦いによる最大な影響は、600年以上に渡り維持してきた武家による政権に終止符が打たれ(真にそうなるのはまだ先であるが)天皇による親政が再び始まったことにある。この戦いは、250年もの間、
徳川政権が鎖国という一種閉鎖的な社会を維持してきたことの悪い面が一気に明るみにでたことによるものだと管理人は思う。
織田信長は、若い時から世界を意識し積極的に世界の知識を吸収していた。豊臣秀吉は、相次ぐ戦いの部下への褒美(所領の加増)が日本国内では賄えないとして中国大陸を手中に収めるため朝鮮に戦いを挑んだが敗れた。ただ家康は、信長・秀吉の例をみていた。異国との交流は、長崎の出島のみとしキリスト教は、禁止とした。
(死をも恐れない信仰の怖さは、一向宗と信長の対立で熟知していた)平和の世の中では、戦いが起こらないため秀吉のように異国に領土を求めることもなかった。
この鎖国政策のため江戸幕府は、270年の長きに渡り世界でも類を見ない平和な時を過ごした。しかし世界情勢の急激の変化・武装兵器の近代化など致命的な情報を得ることができず、そのために異国を容易に追い返すことができるという甘い考えを招いてしまいずるずると泥沼にはまってしまった。
そのことに幕府より若干早く気がついたのが異国と戦争を起こした薩摩(島津)・長州(毛利)であり、この2家が関が原の戦いで家康に逆らい生き残った家で、この2国の間を取り持ったのが家康が関が原で勝利を得る上で最大級の功労者であった山内一豊の領国・土佐藩の郷士坂本龍馬というのが歴史とは実に面白い。
ただこの戦争は、十分幕府側が勝てた戦争でもあった。幕府も早い時期に海軍を作り西洋の武器を輸入していたのである。ただ直接の原因は、前哨戦である第二次長州征伐に敗れたことでもっというと将軍家茂が戦を前に死去してしまったことによると思う。家茂は、紀州徳川家の出身だが誠実で頭脳明晰であったといわれる。
それだけに急死の痛手は深く勝海舟は、「徳川幕府は滅んだ」と呟いたと言う。
結果幕府が一大名に敗れたという事実は、はかりしれなく大きく幕府の求心力が0に近くなったに等しい。そして緒戦の鳥羽・伏見の戦いで大将である慶喜が必死に戦っている家臣を横目に江戸に逃げ帰ったことで事実上勝敗は、決まってしまった。
函館戦争で仲間の降伏を察知した土方歳三は、敵の弾丸の中に攻め入り自ら死を選んだ。この土方は、もともと豪農の息子であり武士よりも武士らしく散ったことが管理人には、武士の時代の終焉の象徴のように思える。
幕府が滅び維新を迎えたことによって日本は、西洋諸国の文化を驚くべき速さで取り入れていくことになり紛れもなく日本にとって無くてはならない出来事であった。しかし、そのため多くの日本古来の伝統は否定されてしまったことも事実でありそのことについては複雑な心境である。
国の歴史は、その国に生まれた人々にとってそれが良い事でも悪い事でも誇りだと思う。現在歴史が注目されているが1方の上辺だけを見るのではなく、両者の立場で見てみれば歴史がより一層面白く感じるのではないかと管理人は思う。
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