人取橋の戦い
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概要
戦年月日 天正13年11月17日(1586年1月6日)
交戦場所 安達郡人取橋周辺(福島県本宮市)
交戦戦力 佐竹氏 南奥諸大名連合軍 約 30000 /伊達政宗 約7000
勝敗 戦では佐竹軍の勝利のだが結果として伊達軍の勝利
人取橋の戦いが起こる時代背景
天正12年(1584年)18歳で父・伊達輝宗から家督を譲られた伊達政宗は、翌天正13年(1585年)に正室・愛姫の実家である田村氏からの独立を目論んだ小浜城主大内定綱を攻めた。
政宗は定綱と姻戚関係にあった二本松城主畠山義継に対しても攻撃を加えようとしたが、義継は輝宗の斡旋を受けて降伏した。その後、義継は宮森城にて会談中に輝宗を拉致ししたため、政宗は、自らの手によって父輝宗もろとも義継を討つことになる。これで激怒した政宗は、父の初七日が明けると即座に13,000の兵を率いて二本松城を攻めた。これに対し畠山氏は義継の遺児・国王丸を擁して籠城戦を展開した。
11月10日、畠山氏救援のため佐竹義重(義重室は政宗の叔母)が、輝宗の代には伊達氏と同盟関係にあった、あるいは伊達氏に従属していた蘆名氏・岩城氏・石川氏・白河氏などの南奥諸大名とともに挙兵した。この佐竹軍進軍の一報を受けた政宗は軍を二手に分け、自らは兵7,000を率いて迎撃のため本宮城に入城する。
11月17日、本宮城を出た政宗は、南方の観音堂山に布陣し、前日のうちに前田沢に布陣していた佐竹および南奥諸大名の連合軍(以下、佐竹軍)は、伊達本陣をめがけて北進を開始。瀬戸川(阿武隈川支流)に架かる人取橋付近で両軍が激突する。伊達軍と佐竹軍の兵力差は7,000対30,000と4倍以上であった。
戦闘は、兵数に勝る佐竹軍の一方的な攻勢に終始した。伊達軍はたちまち潰走し、佐竹軍は伊達本陣に突入、政宗自身も鎧に矢1筋・銃弾5発を受けたと言われる。敗色濃厚となった伊達軍は政宗を逃がすべく、軍配を預かった宿将・鬼庭左月斎が人取橋を越えて敵中に突入して奮戦し討ち死にを遂げた。伊達成実の隊も、挟撃を受けて猛攻を浴びたが、踏み止まって力戦し時間を稼いだため、政宗は辛うじて本宮城に逃れ、この日の戦闘は、日没のため終結する。
伊達軍の惨敗が確実であったのだが翌日、佐竹軍は本国に退却を始める。これは、17日夜に佐竹義重の叔父が陣中で家臣に殺されたこと、そして何より北条方の武将である馬場城主、江戸重通や安房の里見義頼らが攻め寄せるとの報が義重の下に入ったためであった。圧倒的優勢な状況下で30,000の軍勢が一夜にして撤退したことは、極めて珍しいことであるが結果的に伊達軍は、佐竹軍を退けたことになるため勝利という形で幕が閉じることになる。
人取橋の戦いの影響
この戦いの一番の影響は、伊達政宗の成長を飛躍的に促したことである。若干18歳で家督を継いだ政宗は、連勝続きで心の奥底では自分を過信していた面もあったであろう。そんな中、自分の甘さから実の父を人質にとられてしまい、挙句に自らの手で父を殺す結果になってしまう。
後の政宗からは想像が付かないがこの時、若干19歳の彼は、怒りに我を忘れて即座に二本松城を落とそうと行動を開始する。しかし二本松城でも指導者を殺されたことによって幼い跡継ぎを擁して城を枕に死ぬ覚悟で篭城戦を展開する。管理人は、士気の強さが大きく戦を左右すると考えている。二本松城では、士気が異様に高かった事が予想され、事実城は容易には落ちなかった。そのために佐竹義重の北の脅威を拭い去るという考えと、南奥羽の諸侯が持っていた反伊達家の考えが一致して彼らの連合軍が編成され、伊達家に襲いかかる。
連合軍の進攻を知ると政宗は、軍を2つに分けることをよぎなくされ、自らは佐竹連合軍と戦うため7000人を率いて陣をしいた。一方連合軍は、3万という圧倒的な兵力で伊達軍に襲いかかり、政宗は伊達家の宿老である鬼庭左月を失い自らも矢を受けていることからも、本当に命からがら逃げたのだと予想される。
しかし、幸運にも敵が自ら退却を始めたことで政宗は九死に一生を得る。おそらく政宗自身は、この戦を惨敗と捉えていたであろう。しかし、この惨敗で政宗は、怒りに我を忘れることによって起こる重大さを自ら経験することができ、父もいない今自ら全て決断しないといけない責任の重さを改めて理解したことであろう。同時に決断の失敗で家臣の命を無駄に奪ってしまうことも理解したことであろう。 この戦で政宗は、老臣を死なせてしまったが2人の武将の存在意義も確信したであろう。一人は、従兄弟である伊達成実であり後に軍師的役割となる片倉景綱である。この両武将は政宗と共に教育を受けていたこともあり、兄弟のような信頼関係があった。
この戦いで成実は、連合軍に挟撃される中、撤退せず踏みとどまり政宗を逃がす時間を稼ぎこれより以後、伊達成実の名は敵にとって恐怖の対象になる。片倉景綱は、政宗の側につきそい、この戦では影武者になって政宗を離脱させたとも言われ以後の政宗の軍事的参謀となり、以後の政宗に起こる窮地を幾度となく助けることとなる。
結果、当初の目的である二本松城の攻略は、翌年の夏になってしまったが政宗が19歳の若さで大惨敗を経験したことにより、政宗は一皮剥け、飛躍的な精神的成長を生んだのは確かであると管理人は考えている。そして家臣もこの苦難を回避し、若き指導者と参謀、侍大将を中心に、より強固な伊達軍団を形成することができ以後の伊達家の繁栄を築けたのであると思う。
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