応仁の乱
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概要
戦年月日 応仁元年(1467年)- 文明9年(1477年)
交戦場所 京都 指揮官/戦力 細川勝元/160,000(東軍) 山名持豊/110,000(西軍)
勝敗 和睦により終息。名目上は東軍の勝利
応仁の乱が起こる時代背景
応仁の乱とは、室町時代の8代将軍・足利義政のときに起こった内乱である。将軍である義政は、優柔不断な人物で茶・作庭・猿楽などに没頭し幕政は実力者で管領家の
細川勝元・四職家の山名宗全、正室の日野富子らに左右されていた。
政治に全く関心を示さない義政は、
自身に子がないことから実弟の足利義視に跡を継がせ自身は引退し気ままな暮らしをしようと考えていた。しかしまもなく義政と日野富子の間に足利義尚が生まれる。
当然のごとく富子は、我が子を将軍につけようとしここに足利義視の後見人である細川勝元と足利義尚を押す山名宗全の対立は激化し将軍家の家督争いは全国の守護大名を勝元派と宗全派に二分する事態となった。
時を同じくして足利幕府の三管領の一つ畠山氏で畠山義就とその従兄弟の畠山政長との間に惣領家家督争いが勃発した。この件は、細川勝元の策謀により畠山義就が将軍義政から追放されたことにより政長が家督を継いだ。
しかし義就は、山名宗全に取り入り宗全は、将軍義政を懐柔した。そして義政は、細川勝元や畠山政長に報告をすることなく畠山義就に畠山家の惣領家の家督を認めたのである。
廃嫡させられた畠山政長は、自邸に火をつけ兵を率いて陣を敷いた。これに山名宗全が迎え撃ち政長は、自害を装って細川勝元邸に逃走した(御霊合戦)。この後勝元は四国など領地9カ国の兵を京都へ集結させた。
勝元は、中国・近畿・東海地方へと兵を送り出した上で足利義政・義視・義尚を保護した。しばらくして細川勝元率いる東軍と山名宗全率いる西軍が京都にて共に陣を敷くのである。
当初は、東軍が圧倒的優位に戦況を進めたが山名軍8万が上洛したこと・周防から大内政弘が四国の河野通春ら7ヶ国の軍勢と水軍を率いて入京したため西軍が勢力を回復した。
結局この時は勝敗はつかなかったが長い膠着状態が続くようになる。このとき足利義視が東軍を出奔するという事件が起こる。これは、足利義尚のほうに将軍家督相続が有利に働いていたことによる。
細川勝元にも見限られた足利義視を保護した山名宗全は、義視を新将軍として奉り東軍に対抗した。長引く戦乱により地方でも闘争は激化し、畿内でも寝返り・逃走が多発し京都は焼け野原になっていった。
文明5年(1473年)になると西軍東軍の大将である山名宗全・細川勝元が相次いで死去する。翌年になると将軍義政が義尚に将軍職を譲って隠居した。こうして約10年に及ぶ応仁の乱は、一応の終わりを迎えたのである。
応仁の乱の影響
応仁の乱が与えた影響は、はかりしれないほど大きい。この戦の発端は、将軍義政の統率力のなさに尽きると思う。本来将軍は、武士の棟梁であるのでその一言一句には、自ずと重みが発生する。
しかし、義政は武士ではなかった(精神的に文化人であった)
もともと義政は、側近任せの政治をしていたのだろうが折りあるために言われるがままである。義政の軽はずみな行為が応仁の乱に火に油を注ぎ続けたことは否めない。結果、この戦により将軍の地位は、
著しく低下してしまい将軍の権威は無きも等しくなってしまった。
同時に地方の統制にも変化をもたらした。もともと各地方には、守護と言われる大将がいるのだが政務は、その下の守護代が行っていた。実質守護代が地方を切り盛りしていたのである。ただ応仁の乱以前は、
将軍の権力が強かったため守護代は守護を倒そうとは思いもしなかった。なぜかと言うと守護の背後には、将軍がいるからである。
しかし将軍の権威が無くなったことにより、有能な守護代達は、当然ながら守護に取って代わることを望み、守護代の家臣までもが守護代に取って代わろうと思い始める。有能な守護は、
他の守護を倒し領地を増やそうと画策する、いわゆる『下克上』である。
管理人は、応仁の乱の最大の影響は、武士達の精神的な変化であると思う。精神的な変化をもたらしたことによって必然的に下克上が起こったと解釈している。10年に及ぶ戦は、日本全土の民を不幸にしてしまった。
しかしそれがあって強固な戦国大名を生み出し、やがて250年に及ぶ安定的な新たな幕府を開くに至るのである。
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