賤ヶ岳の戦い
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賤ヶ岳の戦いが起こる時代背景
天正10年6月2日(1582年6月21日)、織田信長とその嫡男で当主の織田信忠が本能寺にて重臣である明智光秀に殺害された。その後山崎の戦いにて明智光秀を倒した羽柴秀吉が織田軍団の中で大きな力を持つようになった。
6月27日(7月16日)、当主を失った織田氏の後継者を決定する会議が清洲城で開かれ(清洲会議)、信長の三男・織田信孝を推す柴田勝家と織田信忠の子である三法師(のちの織田秀信)を推す羽柴秀吉との間で激しく対立、その結果秀吉が擁立した三法師を後継者とすることで決着がついた。8月には、秀吉主催で信長の葬儀が行われた。
信長政権で一番の実力者であった柴田勝家は、秀吉の急速な台頭に警戒感を持ち、勝家と秀吉は、対立を深めていった。秀吉は、勝家の後方の上杉景勝等を味方にして対立を有利に進めていった。11月に勝家は、前田利家等を秀吉のもとに派遣し一旦和睦をしている(北陸を所領としている勝家は、雪の影響で著しく不利に陥るため)。
12月2日(12月26日)、秀吉は和睦を反故にし大群を引き連れ長浜城を攻撃した。勝家は、豪雪のため兵を出すことが出来ずに長浜は、秀吉に降伏。12月20日(1583年1月13日)には岐阜城にあった織田信孝を降伏させた。雪のため動けない柴田勝家を横目に秀吉は、織田家の重臣である伊勢の滝川一益を降伏させ、その実力をゆるぎないものにしていった。
これを耐えられなくなった柴田勝家は、2月末に雪をかきわけながら近江に出兵した。3月12日(5月3日)、勝家は前田利家、佐久間盛政ら3万の軍勢を率いて近江国柳ヶ瀬に到着し、秀吉も5万余りの兵を率いて対峙した。当初、降伏していた織田信孝が挙兵をし、秀吉が美濃の大垣城に大群を移動させた所に勝家の武将佐久間盛政に猛攻させ、戦局を有利に進めた。
しかしこれを知った秀吉が兵を反転させ僅かの間に賤ヶ岳周辺に到着し勝家の部隊を急襲させ激しい戦いが行われた。一進一退の攻防を続けていたが柴田側の前田利家の軍勢が突如戦線離脱した。このため前田利家と対峙していた部隊が柴田軍に殺到、加えて秀吉本軍も柴田軍に殺到した。多勢に無勢の状況を支えきれなくなった勝家は、総崩れし居城である越前・北の庄に退却をした。
勝家は、北の庄に逃れたが4月23日(6月13日)には前田利家を先鋒とする秀吉の軍勢に包囲され、翌日に夫人のお市の方(織田信長妹)らとともに自害した。そしてこの時、逃れた諸将は、捕らえられ斬首され京都の六条河原でさらされた。
賤ヶ岳の戦いの影響
この戦いでの最大の影響は、羽柴秀吉が完全に織田軍団を掌握した(支配下に置いた)ことである。山崎の戦いで明智光秀を倒し、信長の敵を討った形になった秀吉だがこの時は、織田軍団の1軍団長であった。秀吉が明智光秀を倒せたのは、秀吉の速すぎる行動力が最大の要因だが柴田勝家が北陸の上杉討伐・滝川一益が関東攻略・丹羽長秀が四国攻略を行っていたことも要因である。
しかし光秀を討った事で自信をつけた秀吉は、信長の後継者を決める清洲会議でまだ幼く操り易い、三法師を後継者にすることを承認させ、信長の葬儀を一手に執り行い、信長の後継者は、自分であると宣言したように思える。
これを背景にまず秀吉が行ったことは、一人でも多く味方につける事であっただろう。重臣の一人である丹羽長秀は、すでに秀吉の傘下に入っていたがまだまだ勝家には、対抗できなかったからである。そこで勝家との決戦を前に勝家の養子勝豊を諜略し、勝家の与力(勝家が統帥権を持った武将)である前田利家らを仲間につけている(勝家に裏切りを勧めるのではく、戦いの時に参加しないようにした)。このような下準備を万全にした上で勝家を破ったのである。
織田軍内の対抗勢力を全て倒した秀吉は、当時最強の織田軍をそのまま引き継いだ形となり信長が描いたシナリオ通りに国内を攻略し、ついに信長の悲願だった天下統一を成し遂げる。この戦いから約7年で天下統一を成し遂げているが信長が殺害されていなければもっと早く統一がなったと推測できるが死者も間違いなく増えていたことだろう。これは、信長と秀吉の諸国の攻略方法が微妙に違うからである。
その違いの大きな要因がこの戦いにあった。それは、秀吉が小さい頃から手塩にかけて育てた加藤清正・福島正則・加藤嘉明・脇坂安治・平野長泰・糟屋武則・片桐且元の7人(俗に賤ヶ岳7本槍)が手柄を
立て立派に働いた事であった。これは、身内が極端に少ない秀吉にとってまたとない喜びであっただろう。このことで重要なのは、旧勢力(信長の父の代からの老臣)から新勢力(20歳前後の秀吉子飼いの武将達)に主役を交代させたことにあると思う。
古い信長の時代(信長自身の考えは最先端だが合理的すぎて痛みを伴う)から新しい秀吉の時代に人も考え方も変換させたのである。その証拠にこの7人を始め、秀吉子飼いの家臣がまもなく政権の中心を占めるようになり、秀吉を助け勇躍していくのである。時代を変える上でこの戦いは、とても重要であると考えられるのである。
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