大坂の役
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概要
戦年月日 1614年(慶長19年)11月 - 1615年(慶長20年)5月
交戦場所 摂津国 東成郡大坂城およびその周辺
交戦戦力 徳川家康 冬-約 200000 夏-155000 /
豊臣秀頼 冬-100000 夏-78000
勝敗 徳川軍の勝利
大坂の役(大坂冬の陣・夏の陣)が起こる時代背景
豊臣秀吉死去後、5大老の筆頭である徳川家康は、1600年に関ヶ原の戦いにて豊臣方である西軍と天下分け目の合戦を行い勝利を収め1603年、家康は伏見城で征夷大将軍に就任し、江戸に幕府を開いた。
関ヶ原の戦いにて勝利を収めた家康だがその後も豊臣家は、直轄地を1/4の65万石に減らされ多くの配下武将が改易の処分を受けながらも、当主豊臣秀頼と共に大坂城にて存在していた。豊臣家を完全に滅ぼさなかったことでこの時の徳川家と豊臣家は、非常に微妙な関係であった。
徳川家康としては、主筋の豊臣秀頼を服属させてなんとか穏便に済ませたいと言う気持ちが強かったように思える。それは、2代将軍になる秀忠の娘を秀吉の遺言に従い、豊臣秀頼に輿入れさせた事実でもうかがえる。同時に1605年、僅か2年で時期将軍の位を秀忠に譲り、永代徳川家が天下を掌握することを諸侯に示した。
徳川家の治世が続くことを示した家康だが豊臣秀頼へは、官位を右大臣まで昇らせており別格の待遇は、崩していなかった。家康は何度も秀頼に対して服属と会見を打診するがその度に生母である淀君に拒否され関係は、悪化の一途をたどっていた。そんな、中1611年に豊臣恩顧の大名である加藤清正や浅野幸長らの奔走にて秀頼と家康の会見が実現する。
この両者の会談により両家の緊張は、緩和されたと思われたが同年に浅野長政・堀尾吉晴・加藤清正が、翌年に池田輝政・浅野幸長、その翌年に前田利長が亡くなると、豊臣家の孤立はいっそう強まり豊臣家は、徳川幕府に対する対抗姿勢を鮮明にしていった。
徳川幕府も大砲や鉄砲等の軍備の増強を命じて真田昌幸の子である信繁(幸村)や長曽我部元親の子である長曽我部盛親など浪人を大坂城に大量に抱え始めた豊臣家との戦は、いつおこってもおかしくない状況になっていた。
1614年10月11日、徳川家康はついに軍勢を率いて駿府を出発した。この時家康は諸侯に参集を命じ、動員した兵力はおよそ20万と言われている。これに対して豊臣秀頼が集めた兵力は、15万5千と言われている。戦闘は、11月19日始まり12月に入ると豊臣方は大坂城に
篭城し、その後も真田丸に真田信繁が立てこもり、何度か徳川方を撃退している。この間に徳川方から和議の提案があり和議は、程なく成立する。
和議の条件に大阪城の外堀を埋め立てると言う項目があり、外堀を埋め立てた後に、続けて二の丸をも強行して埋め立てはじめ、大阪城をほぼ丸裸状態にすることに成功した。その後も、大坂方は、浪人を解き放つことはせず兵力を保持し続け、徳川方も軍備の状況を続けていた。1615年、5月家康は再び出陣し、大坂との再戦が行われることになった。大阪城を丸裸にされた豊臣方は、篭城戦の不利さを悟っており積極的に討ってでる作戦がとられた。
この時に豊臣方の突撃は、大方が壊滅し敗れたが5月7日に行われた天王寺・岡山合戦は戦国の世最大にして最後の戦いであり、特に真田信繁率いる真田隊は、徳川家康本陣まで迫り、家康がそのとき首をとられるのを恐れて自害をしようとしたとの逸話も残るほど大混戦であったといわれる。しかし、兵力の差で勝る徳川軍は、大阪城に殺到し大阪城天守に火の手があがり大阪城は陥落、豊臣秀頼・淀君をはじめ豊臣方の重臣は、自害をし和議を含め年を越えた大坂の役は、幕を閉じた。
大坂の役の影響
この戦いでの最大の影響は、この戦によって戦国時代は完全に終わり、以後250年間ただ一度も戦が無いと言う世界的にも奇跡に近い状況を作ったことにある。関ヶ原の戦いで徳川家康が天下を掌握したがただ一つだけ遣り残した事があった。
豊臣秀吉の遺児である、秀頼が太閤秀吉によって作られた当時最大の城砦である大坂城に居続けていたことであった。
しかし家康は、この秀頼をすぐに排除することは出来なかった。関ヶ原で家康を勝利に導いた最大の功労者は、全て豊臣秀吉に恩義がある豊臣子飼いの諸侯だったからである。彼らは、石田三成に対して家康に与したわけで秀頼に対しては、露ほども敵対意識はない。そればかりか家康が秀頼に害を及ぼすつもりとわかったら秀頼の元に参じることは、容易に想像が出来、そうなったら戦国の世に逆戻りである。
そこで家康は、秀頼に対して特別待遇をとりながら豊臣恩顧の大名の力を削ぐために様々なことをしている。その中でも特に有名なものが天下普請である。これは、将軍の命令で強制的に諸大名に対して城を築かせる手伝いをさせることで(有名な城では、名古屋城・二条城・改修では、上野城・姫路城等)これは、豊臣恩顧の大名に対して命令が下ることが常であり非常に財政的な打撃を受けた。
このようにして財政的打撃を加えることで徳川家に対する忠誠を誓わすことで徐々に豊臣家の力をそいでいく温和策をとったのである。これはやはり家康の天下を奪った秀頼に対する負い目も合ったのだと思う。このような状況でもなぜ秀頼が反抗し続けただろうか。最大な要因が淀君だったとよく言われる。淀君は、織田信長の姪であり、秀頼の生母である。言って見ればお嬢様なわけで秀吉亡き後は、秀頼だけが自分の頼りであった。秀頼は、生まれてから大坂城から出ることもかなわず、武芸等もすることもなく育てられたのである。そして、天下夢想の大坂城に守られいるわけだから怖いものは無い。秀頼は、利発であったとされているので武士らしく教育されていれば違った結果になったのだろうが・・・。
そして僅か2年の間に加藤清正をはじめ豊臣恩顧の大名がぞろぞろ急死してしまったこと。その2年後に大坂冬の陣が起きる為、毒殺か?と思われても仕方の無いように思える。そしていざ戦いを始めると豊臣方は、烏合の衆であり統制がとれた攻撃が出来ない。これは、致命的であったようである。そこで一人の武将に脚光が浴びる。真田信繁である。真田昌幸の名前は、大変有名であったが信繁は、実際に実戦の指揮はとったことがなく戦力は、未知数であった。そのため信繁には、多くの兵力は与えられずに居たのである。しかし昌幸の側で多くの戦いを経験しているので武田信玄が「我が目」と高く評した昌幸の知略を熟知しており、大坂冬の陣では、真田丸という砦を作り、散々に徳川軍を撃退して名を上げる。
大坂夏の陣では、家康の本陣までせまり討ち死にをする。この時に徳川方が賞賛の意味をこめて「真田日本一の兵」と言ったとされる。彼にもっと多くの兵の指揮権があったら、真田昌幸がこの時まで生きていたらどうなったのであろうか。管理人が思う大坂方の大敗北の原因は、絶対的な大将がいなかったからだと思っている。真田昌幸もそうだが加藤清正等も生きていたら違う結果になっていたはずである。しかし、戦国の勇将が居なくなったことからも天下が平和を願っていた必然的な結果であったと思うと同時に、真田信繁という最後の戦国武将の出現と討ち死にが平和の幕開けの象徴のように思えるのある。
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