四国征伐
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概要
戦年月日 1585年
交戦場所 阿波・讃岐・伊予
交戦戦力 羽柴軍 105000-123000 / 長宗我部軍 40,000
勝敗 羽柴軍の勝利
四国征伐(羽柴秀吉の)起こる時代背景
長宗我部元親は、織田信長と同盟を結び四国統一に邁進していたが、そのあまりにも早い動きに警戒感を持った信長は、元親に臣従を促す。元親がこれを拒否したことにより天正10年(1582年)5月上旬、信長は織田信孝を総大将、丹羽長秀・蜂屋頼隆・津田信澄を副将として四国方面軍を編成し、四国攻めの指示を下した。
しかし直前に織田信長は、明智光秀により本能寺で討たれた為、この時の四国攻めは、中止になった。長宗我部元親は、その後も四国統一を目指し、阿波・讃岐に進攻する。信長の死後、羽柴秀吉が後継者として名乗りを上げ、四国に関しては信長の政策を受け継ぎ、長宗我部氏との対決姿勢を保った。
天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いに際し、元親は柴田勝家・織田信孝と結んで秀吉を牽制したため、秀吉は淡路洲本城を仙石秀久に守らせ備えた。これに平行して毛利氏が秀吉と和睦したことにより毛利・長宗我部の関係が冷却化し、毛利氏と有効関係にあった伊予の河野通直・西園寺公広へ長宗我部氏は進攻を始める。
長宗我部氏の伊予侵攻に対して、毛利氏は河野氏援助のため伊予に派兵した。天正12年(1584年)3月の小牧・長久手の戦いでも元親は徳川家康・織田信雄と結び、紀伊の根来・雑賀衆と協力して秀吉の背後を脅かす姿勢を見せた。6月には、讃岐十河城を攻略し10月には長宗我部方が西園寺公広の黒瀬城を攻略した。
しかし天正13年(1585年)3月から4月にかけて秀吉は紀州攻めを行い、元親の同盟勢力である根来・雑賀衆を潰した。これによって長宗我部氏は軍事的に孤立してしまう。そしてこの時、毛利氏も秀吉の命で軍を動かすなど従属大名となっていた。一方これと同じ時期に元親は、湯築城の河野通直を降して伊予を平定し四国を統一している。
1585年(天正13年)5月4日、秀吉は黒田孝高に四国攻めの先鋒として淡路に出るよう命じ、また一柳直末には明石で待機するよう命じる。そして6月、秀吉は四国への出陣を正式に決定し、淡路から阿波・備前から讃岐・安芸から伊予の三方向から四国への進軍を命じた。この戦の総大将を弟の羽柴秀長、副将を甥の羽柴秀次とした。
長宗我部元親は、2万から4万の兵を動員し自らは、阿波西端の白地城に本陣を敷いた。讃岐方面からは、宇喜多秀家率いる備前・美作の兵に加えて播磨から蜂須賀正勝・黒田孝高、さらに仙石秀久が加わり計2万3000(1万5000とも)の軍が屋島に上陸。伊予からは、毛利輝元配下の中国8ヶ国の軍勢延べ3万から4万が四国に進攻する。羽柴秀長率いる3万と羽柴秀次率いる3万は、阿波方面から進攻した。
3方向から延べ12万の兵で攻められた長宗我部軍は、瞬く間に城を次々と落とされた。これに対して当主元親は、徹底抗戦を主張したが重臣たちの説得をうけ降伏した。降伏条件は、阿波・讃岐・伊予の割譲と軍役の強制、人質の提出、徳川家康との同盟の禁止である。こうして織田信長から始まった一連の四国征伐は、終わりを迎えた。
四国征伐の影響
この戦いでの最大の影響は、織田信長亡き後の織田政権を羽柴秀吉が完全に引継ぐことを世に知らしめ、秀吉の要求によって多くの諸侯が動いた=秀吉に従属した。それによって秀吉が天下人に駆け上がる最初の大規模な戦になったことである。
もともと織田信長と長宗我部元親は、有効関係にあったため当初は、信長も元親の他国への侵攻を割譲した分だけ領地とすることを容認していた。しかし元親の進攻があまりにも急速すぎ、信長に警戒感をもたらせてしまった。割譲した土地を完全に統治をしてから他国に進攻をすれば良いのだが統治が不十分なうちに次々と進攻をしたために領地内からも進攻をうける諸国からも反感が出て、その報告は信長の耳に入ってしまう。
信長は、元親に臣従を求めるが勢いにのっている元親は、これを真っ向から拒否する。信長は、ついに四国攻めを決定するが直前に本能寺で殺害されてしまう。これを見た元親は、かまわずに四国統一に向けて進攻し続けてしまった。
秀吉が織田軍団を受け継いでも敵対関係はどんどん増してしまい、秀吉の下に紀伊の諸侯や中国の毛利氏が臣従して四面楚歌になってしまっても臣従を拒否し続けた。このことによりついに秀吉が亡き主君の意思であった四国征伐を決定してしまうのである。
この戦での兵の動員数の差が全てを物語っていると思う。その差が10万である。秀吉自らの指揮ではなく、弟である秀長が大将であり、100万石以上はあるであろう四国の覇者が相手でこれでは、秀吉の勢いを日本全国の大名に見せつけるには、十分すぎるほどであったのではないか。
事実、3方向から攻められた長宗我部元親は、なすすべもなく降伏をする。長宗我部元親の項でも書いたがこの状況でも部下に対して元親は、玉砕を主張し続けたとされる。この一時をもって元親の器が複数の国の領主に不向きなのがよくわかると思う。
この戦は、長宗我部元親の甘さが生んだ戦であろう。しかし、秀吉が今後天下統一を成す上で無くてはならない戦であったと管理人は考える。この戦の最中に関白となった豊臣秀吉は、この戦で3方向から途方もない兵力で同時に攻撃するという圧倒的な力を日本全土の諸侯に見せつけ、1回の戦でこの後各地で起こったであろう無用な戦を回避でき、天下統一事業をどれほど楽にしたであろう。
長宗我部元親は、この後土佐に押し込められ、長男も戦で戦死してしまい、自分が死んだ後の関ヶ原の戦いの判断ミスから家も取り潰されてしまうという結果になる。なまじ四国を統一してしまったためにどれほど悔しい晩年だったであろう。しかしこの戦の後に自分の甘さと器の違いを秀吉の戦をみて認識したであろうと管理人は思う。
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