総評
明智光秀は、大恩人の織田信長を殺してしまった謀反人の代表格であり、殆どの人が負のイメージで知っているのではないだろうか。確かに信長を殺したのは事実なので仕方の無いことだが目線を本能寺の変以前の彼に当ててみるとどうだろう。彼の武将としての実力は、間違いなく第一級である。
光秀の師は、斎藤道三であったと管理人は、強く信じている。やはり人は、10代から遅くとも20代前半までには、考え方・基本が固まってしまう。斎藤道三は、俗に油売りから美濃を謀略で奪いとった下克上の代名詞である。この道三から重要な時期に薫陶を受けたことで人間光秀が形成されたのではないだろうか。そうでも考えなければ以後の彼の武将としての行動(戦術・戦闘力・統率力・知識等)が信じられず、それらは諸国を歩き回っただけでは、得ることができないのである。
光秀は、斎藤義龍に明智城を攻められた後、少なくとも数年は諸国を流浪していたとされる。光秀は、築城術に優れていたとされるがおそらくこの時期に全国の地形・城を実際見ることで独学で会得していったのではないだろうか。そしてあまり知られていないことだが彼は、鉄砲の名手で逸話では「100発のうち68発は黒丸の中に当て32発も的の中には当てた」と伝えられる。これは、当時の鉄砲の精度では驚異的でおそらく智謀と鉄砲術で朝倉家に仕官されたと考えられる。
この時期、朝倉家に足利義昭が頼ってきたことも光秀に味方をした。彼は、浪人暮らしが長くとも名門の出であり、義昭の接待にはうってつけであった。そして彼から諸国の情報が義昭に流れ義昭も光秀を気に入ったのではないか。この時期織田信長は、桶狭間の戦いの勝利で勢いをつけ尾張・美濃を掌握し畿内制覇を掲げていた。義昭と信長の利害が一致しそこに光秀が重要な人物として位置づけられたのである。
光秀の才能を見抜いた信長は、光秀を家臣にした。今で言うとベンチャー企業社長が一流企業の社長の腹心をヘッドハンティングしたようなものだろうか。信長は、光秀を期待していただろう。おそらく当初は、光秀を幕府や朝廷との折衝・政務官として考えていたのだろう。ただ光秀は、違っていた。斎藤道三譲りの戦術・智謀・鉄砲術を思うままに使い名指揮官の才能を示し始めた。光秀という鷹が今まで翼を閉まっていただけだったのを翼を広げて飛び始めたのだと考える。
そして指揮官の才能を認めた信長は、光秀を大軍を指揮する軍団長として重用する。丹波の国を与え、東海道・山陰道の付け根に城を築かせ、畿内の織田大名の総指揮権を与え日本の中心である京都を守らせたのである。信長の光秀に対する信頼は頂点を極め、この時期光秀は、信長の天下布武になくてはならない最重要の人物であったのである。
しかしそんな中、光秀が突如信長を殺してしまう。なぜなのかは、わからない。信長にとって光秀が最重要な部下だったと同じように光秀にとっても信長は、武将として彼を開花させた大恩人であったことは、「枕を東(光秀の居城坂本城から信長の居城安土城の方角)にむけては寝れない」という光秀の言葉からも明白である。おそらく光秀のことなので自分は、大将ではなく参謀が向いていることもわかっていただろう。だからこそ管理人は、本能寺の変の項でも書いたが光秀が天下という風の心地よさに魅せられ踊らされてしまったのだと考えている。そして彼の死体は見つかっていない(光秀の首とされたものは、痛みが激しく本人のものとの確証はなかったとされている)謎が多いところが彼の魅力でもあると思う。
明智光秀 早乙女貢(著)
明智光秀の生涯を描いた小説である。特に特筆すべき点は、この小説は、山崎の戦い後の光秀をも書いていることだ。明智光秀には、有名な説として「天海⇔光秀説」という説があり、この小説は、それを採用しているのである。
早乙女は、小説で明智光秀を類まれなる文武両道な武士で万民の平和を願う人物として描いてる。光秀の本能寺の変での行動には、非常に謎が多くあり諸説あるがこの説は、さもあろうと思える代表的な説であり、南光坊天海として返り咲くまでの過程もとても面白い。1巻物であるためすぐ読めておすすめである。
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明智光秀