水野勝成
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略歴
永禄7年(1564年)、水野忠重(母は、徳川家康の生母である於大の方)の嫡男として三河国刈谷(岡崎、鷲塚と諸説ある)に生まれる。天正7年(1579年)の遠江国高天神城攻めで初陣をする。
天正8年(1580)、勝成は奥田城、細目城を任される。同年、第二次高天神城の戦いに忠重と共に参加し首級をあげ、織田信長から感謝状を与えられる。
天正10年(1582年)、勝成は父の元を離れ徳川家康の甲州攻め(天正壬午の乱)に参加する。天正11年(1583年)の小牧・長久手の戦い、天正12年(1584年)
の蟹江城合戦と家康の幕下で活躍するが父忠重の部下を斬り殺したことから忠重の逆鱗にふれ、京都に逃れる。
天正13年(1585年)に四国征伐(第二次四国征伐)が行われることになると、仙石秀久家中として出陣する。
天正15年(1587年)には肥後国領主佐々成政に1000石で召し抱えられ肥後国人一揆鎮圧に参加し活躍する。その後小西行長、加藤清正、立花宗茂、黒田孝高、三村親成と主家を替えているが行く先々で武功をあげている。
慶長4年(1599年)、徳川家康の幕下に加わり、家康の仲介で父忠重と15年ぶりに和解する。しかし会津征伐のおり、忠重が石田三成家臣の加賀井重望に殺されてしまい、
家康に急遽三河国刈谷3万石の家督相続を命じられる。関ヶ原の戦い後、従五位下日向守を叙任する。
元和5年(1619年)、福島正則の改易に伴い徳川秀忠より備中西南部と備後南部の福山藩10万石を与えられる。勝成は、海上交通を重視して瀬戸内海に近い今日の福山市に新たな城(福山城)と城下町(福山)を築いた。
寛永16年(1639年)に隠居し慶安4年(1651年)に福山城内において死去。享年88.
水野勝成とは
水野勝成は、異色の武将である。徳川家康の従兄弟でありながら15年間も全国を放浪しているのである。しかしその15年間がなければ勝成のその後は、違うものになっていただろう。
勝成は、当初から勇猛な武将で軍令違反を良く犯していたが武功は、人一倍にあげていた。しかし父忠重は、それを快く思っておらず勝成も父に反発ばかりしていた。
21歳の時、父の部下を斬ったことで父に勘当され15年に及ぶ放浪生活の幕が上がる。
しかし、勝成は勇猛な武将であるため仕官には、全く困らなかった。ただ仕官に困らなかったのは、その頃、台頭してきた徳川家康の従兄弟というのも少しはあったと推測する。
この放浪期間に様々な大名を渡り歩いているので後に徳川家康のスパイであったのではないかと噂されたほどである。そんな波乱にみちた生活も関が原の前年に徳川家康に呼び戻され、
父忠重が殺害され苅谷城を継いだことで放浪生活に終止符が打たれ勝成の第二の人生の幕が上がる。
関が原の戦いでは、敵将福原長堯から名刀「名物日向正宗」(現物は、現在国宝に指定されている)を奪い取る等、数多くの戦功を上げている。その後は、
自領にて善政を敷いていたが大阪冬、夏の陣で無類の戦功をあげ再び脚光を浴びる。
しかし勝成が先鋒軍の大将にも関わらず自らが先陣をきり戦ってしまったためそれが家康の逆鱗(勝成の性格を知る家康は、大将は自ら戦うなと何度も念を押していた)
にふれたった3万石しか加増されなかった。これに勝成は大激怒したが徳川秀忠が家康の死後勝成に10万石以上の領地を与えると約束したため収まったといわれる。
この約束は家康死後、福山を与えられたことで守られた。福山は交通の要所で九州、西国の豊臣恩顧の大名が必ず通る地にあり東の池田、畿内の大名が謀反を起こしても彦根の井伊、
名古屋の徳川義直と一緒に挟撃ができるという軍事的の要所でもあった。
ただそれ以上に勇猛な勝成が福山を治めることでそれらの大名に対し、戦う以前に戦意をなくさせるという勝成の威圧感に大きな期待があった。福山に移った勝成は
武を封印し治世に心血を注ぎ死ぬまで福山の発展に尽力をした。勝成の前半生と後半生の生き方が全く違っており非常に魅力的な人物である。
総評
水野勝成は、非常に波乱の人生を歩んだ武将である。徳川家康の従兄弟でありながら21歳から15年間という長い期間放浪していたというのは、実におもしろい経験をしている人物である。
この人は、何度も軍令違反を犯し、仕える武将が気に入らなかったらあっさり見切りをつけて主家を替えている。その時、海道一の弓取りと言われた徳川家康にとっては、
非常にやっかいな従兄弟であっただろう。しかし、彼は主家を替えても替えても雇われ武勇を謳われている事実から見ると武将としての器は大きかったのだろう。
一番成長ができたであろう20代、30代を一介の武将として過ごしたことは、彼の人生に非常に大きな足跡を残したのではないだろうか。彼が放浪中に出来た妻子を生涯大事にしたり、
一時期臣従し没落していた三村親成を高禄で家老に迎えたり、福山を発展させた背景には、放浪時代の経験と人脈に裏打ちされている。
彼がもし勘当されずに家康に仕え続けていたら血の気の多さから問題を起こして切腹させられていたかもしれない。だが放浪の15年の間に血の気の多さも大分引いており、
彼は別人になって家康の元に帰ってきたのだろう。 彼は、関が原の戦い以後、50年も生きている。きっと彼は、何も思い残すことなく死去したのではないか。
前半生は一介の武将として自分の力を思う存分試し、後半生は低い目線から民のためを一番に考えた善政を行ったのだから非常に贅沢な人生を生きた武将である。
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