織田信長
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略歴
尾張国・古渡城主・織田信秀の次男として天文3年5月12日(1534年6月23日)、那古屋城にて生まれる。母・土田御前が信秀の正室であった為嫡男となり、2歳にして那古野城主となる。
天文15年(1546年)、古渡城にて元服し、織田上総介信長と称する。天文17年(1548年)、父・信秀と敵対していた美濃国の戦国大名・斎藤道三との和睦が成立すると、道三の娘・濃姫と結婚した。天文20年(1551年)、父・信秀が没した為、家督を継ぐ。
信長の当主としての器量を疑問視した重臣の林秀貞(通勝)・林通具・柴田勝家らは、信長を廃して聡明で知られた弟・信勝(=信行)を擁立しようとした弘治2年(1556年)8月24日に挙兵して信長と戦うも敗北(稲生の戦い)。弘治3年(1557年)に信勝は再び謀反を企てるが信長は病と称して信勝を清洲城に誘い出し殺害し、永禄2年(1559年)までには尾張国の支配権を確立した。
永禄2年(1559年)2月2日、信長は室町幕府のある京都へ上洛し、13代将軍足利義輝に謁見。永禄3年(1560年)5月、駿河国・遠江国・三河国を支配する今川義元を桶狭間の戦いにて破る。永禄5年(1562年)、信長は三河国の徳川家康と同盟(清洲同盟)を結ぶ。
永禄7年(1564年)に北近江の浅井長政に妹である市を輿入れさせることで長政と同盟を結び、斎藤氏への牽制を強化している。永禄10年(1567年)には、斎藤龍興を伊勢長島に敗走させ、美濃国を手に入れた(稲葉山城の戦い)。
永禄10年(1567年)9月、信長は天下布武への大義名分として第15代将軍に足利義昭を奉戴し、上洛を開始した。天正4年(1576年)、北伊勢を統一する。元亀元年(1570年)4月、越前国の朝倉義景を討伐するため、越前国へ進軍を開始。元亀2年(1571年)9月、比叡山延暦寺を焼き討ちにする(比叡山焼き討ち)。天正元年(1573年)7月には、足利義昭を室町御所より追放している。9月には、刀根坂の戦いで朝倉軍を破り、朝倉義景は自刃した。9月、小谷城を攻略して浅井氏に勝利し浅井久政・長政父子は自害した。
天正3年(1575年)には、長篠の戦いにて武田家を滅ぼす。天正4年(1576年)1月、信長自身の指揮のもと琵琶湖湖岸に安土城の築城を開始、天正7年(1579年)に五層七重の豪華絢爛な城として完成した。天正5年(1577年)には、紀州雑賀衆を討伐するために紀州攻めをおこす。
天正7年(1579年)、信長は徳川家康の嫡男・松平信康に対し切腹を命じる。天正9年(1581年)、京都御馬揃えを行う。天正10年(1582年)6月2日、明智光秀によって本能寺を襲撃され死去。享年49。
織田信長とは
織田信長は、戦国の3英傑で乱世を統一へと導いた立役者である。信長の家は、「織田弾正忠家」と言われた。当時尾張国は、守護大名・斯波氏が統治しており、その被官で下四郡(海東郡・海西郡・愛知郡・知多郡)の守護代に補任された織田大和守家の家臣にして分家でもあった清洲三奉行・古渡城主の織田家という家柄であった。
2歳にして那古野城主となる。幼少から青年時にかけて奇矯な行動が多く、周囲から尾張の大うつけと称されており、身分にこだわらず、町の若者とも戯れていたといわれている。今川氏に護送されるはずだった松平竹千代(後の徳川家康)が家臣の裏切りにより、織田氏に護送されてきた為、幼少期を共に過ごし、後に両者は固い盟約関係を結ぶこととなる。
信長は、美濃の大名である斎藤道三の娘・濃姫と政略結婚する。後に正徳寺で信長と道三は、対面するがこの時、信長がうつけの衣装で来訪したが対面の場面では、礼服にて礼儀をふまえた挨拶を行い、道三は信長の器量、度量を見抜いたといわれる。
天文20年(1551年)、父・信秀が没した為、家督を継ぐ。当時、尾張国は守護大名の斯波氏の力が衰え、守護代であった「織田大和守家」当主で清洲城主の織田信友が実権を掌握していた。信長は叔父の守山城主・織田信光と協力し織田信友を殺害、信長は那古野城から清洲城へ本拠を移し、尾張国の守護所を手中に収めた。弘治2年(1556年)4月、義父斎藤道三が子の斎藤義龍との戦いに敗れて戦死(長良川の戦い)する。
重臣の林秀貞(通勝)・林通具・柴田勝家らによって信長を廃して聡明で知られた弟・信行を擁立しようとし、信長と戦うも敗北(稲生の戦い)した。信勝は再度謀反を企てるが信長により殺害された。さらに信長は、織田一門の宗家であった尾張上四郡(丹羽郡・葉栗郡・中島郡・春日井郡)の守護代「織田伊勢守家」の岩倉城主・織田信賢を破って(浮野の戦い)これを追放。さらに尾張守護家で主人の斯波義銀を尾張から追放した。こうして信長は、永禄2年(1559年)までには尾張国の支配権を確立した。
尾張を統一した矢先、隣国の大大名であった今川義元が尾張の侵略を始める。信長は、これを桶狭間にて破りこのことにより織田信長の名は、全国に知られるようになる。同時期、美濃の斎藤義龍とも緊張関係にあったが永禄4年(1561年)に義龍が急死しすると嫡男・斎藤龍興が後を継ぐと、斎藤氏は家中で分裂が始まる。永禄10年(1567年)、斎藤龍興を伊勢長島に敗走させ、美濃国を手に入れ(稲葉山城の戦い)、井ノ口を岐阜と改正して岐阜城を居城とする。
岐阜に居を構えてからの信長は、天下を意識し始める。当時最強の軍団と思われていた武田信玄の四男諏訪勝頼(武田勝頼)に養女(遠山夫人)を娶らせることで同盟を結び、遠山夫人が武田信勝を出産した直後に早世すると同年末には嫡男信忠と信玄の六女松姫との婚姻を模索し友好的関係を持続させるなど、周囲の勢力と同盟を結んで国内外を固めた。そして足利義昭を擁して上洛した信長は、義昭を15代将軍に据える。
伊勢国では、南朝以来の国司である北畠具教が最大勢力を誇っていたが、北伊勢の神戸氏に三男の織田信孝を養子として送り込み、更に具教の次男・長野具藤を追放し弟・織田信包を長野家当主とした。北畠家の大河内城を大軍を率いて攻め次男・織田信雄を北畠氏の養子として送り込み養子戦略により北伊勢攻略を終える。
足利義昭は、信長の傀儡という現状に不満を抱き御内書を諸国に発し、第一次信長包囲網を確立する。信長は浅井氏を討つべく、盟友徳川家康と連合して姉川の戦いに勝利する。しかし石山本願寺、浅井・朝倉連合軍を相手に苦戦をし、信長は正親町天皇に奏聞して勅命を仰ぎ、12月13日、勅命をもって浅井氏・朝倉氏との和睦に成功した。そして元亀2年(1571年)9月、
比叡山延暦寺を焼き討ちにした(比叡山焼き討ち)。
武田家と信長の間は良好であったが武田信玄が信長の同盟先である徳川家康領に攻め込んだことで両者の間で戦が始まる。武田信玄は、徳川領の城を次々と落城させていき、信長は、家康に,3000人の援軍を送ったが、12月の三方ヶ原の戦いで織田・徳川連合軍は武田軍に大敗した。時を同じくして京都の足利義昭が三好義継・松永久秀らと共謀して挙兵。信長は、再び正親町天皇から勅命を賜り義昭と和睦、武田軍は、信玄の急死によって甲斐に撤退した。
武田家の脅威から逃れた信長は、態勢を立て直し、足利義昭を破り、追放した。浅井・朝倉軍をも破った信長は、長島の一向一揆を焼き討ちを行う。天正3年(1575年)、武田勝頼は、長篠城を攻めそれを織田・信長連合軍が迎え撃ち、武田家を破っている。
信長は、懇願時攻略に重点をおくが石山本願寺の攻撃に窮地に陥るがこれを撃破することに成功している。天正4年(1576年)になると再び足利義昭が暗躍し始め、上杉謙信を盟主に第二次信長包囲網が構築される。信長は、紀州攻め等に勝利をおさめる。しかし一方では、加賀北部、南部を上杉家に奪取され信長は苦戦を強いられる。しかし、上杉謙信が急死をしてしまい、その後に起こった上杉家の跡取り騒動に乗じ、信長は再び加賀国を奪取した。
天正7年(1579年)に安土城が完成すると信長は、安土を居城とし天下統一に邁進し始めることとなる。
この頃になると同時多方面に勢力を伸ばせるだけの兵力と財力を信長は備えていた。信長は、重臣に各地を統治させ領土拡大を図らせた。織田軍は上杉謙信の死後、上杉氏との戦いを優位に進め、能登国・加賀国を奪い、越中国にも侵攻する勢いを見せ。中国・山陰地方の毛利軍との戦いも優位に進めていた。長篠の戦いで大敗を喫した武田家は、この戦いであった重臣の多くが戦死をとげ、領国の経営もうまくいっていなかった。そこに織田軍は、進攻をはじめ次々と武田の諸城を落としついに武田家を滅亡させた。
天正10年(1582年)、信長は備中高松城攻めを行なっている羽柴秀吉の使者より援軍の依頼を受け、中国遠征の出兵準備のために上洛し、その後は京の本能寺に逗留していた。
そこを明智光秀に攻められ死去した。
総評
織田信長は、戦国乱世が生んだ最大の英雄だと管理人は考えている。それは、彼がそれまでの常識的概念を全て破壊し、新しい方向性を示したからである。管理人は、信長には4つの時期があると考える。1つ目は、桶狭間の戦いまでのうつけ者の時期。2つ目は、足利義昭を将軍位につけるまでの飛躍の時期。3つ目は、一番苦しい戦いの時期である信長包囲網の時期。4つ目は、安土城を築城した後の天下奪取の時期である。
信長は、幼少時うつけ者と言われ馬鹿にされていた事は、周知のことである。しかし管理人は、この時期が信長にとって最も重要な時期であったように思える。信長の家は、尾張国守護の被官である守護代の1奉行だということは、先に書いたが城持ちの若様である。しかも信長の父である信秀は、知勇兼備で知られ守護代の領土をも脅かす器量人であった。
にもかかわらず信長は、いつも乞食同然の格好をして、地元の武家以外の民とも相撲などをしたり、こだわらず付き合っていたといわれる。それは、
広大な領国を治めてからも同じであったと言われる。ここから常識を壊す彼の行動は、幼少期からのものだというのがよくわかる。信長は、一般の民と同じ目線で物事を考えることができており、城下の色々な職業の者と交わっていたと推測できる。一般の若様であったら家来の勧めるがままの人に会う事しかしない為、彼のような柔軟な発想はできなかっただろう。
信長は、民と交わる事で社会情勢にも敏感になっていたであろう。城下には、諸国を渡り合っている商人が多くいるため幼い頃から他国の内情にもある程度精通していたのではないだろうか。だからこそ鉄砲の性能を早くから気がつき積極的に購入したのだろう。その反面信長は、父も早く死に母・弟に命を狙われて弟を殺している。このことが自分のみを信じる彼の精神を作り上げたのかも知れない。
これらのことにより桶狭間の戦いまでは、彼の世間の評価はうつけ者の何者でもなかった。しかし桶狭間の戦いで圧倒的不利の中、篭城をせずに奇襲をかけ、相手を打ち破るという、今までの常識を覆した。このことにより、信長は家臣からは畏敬の念をもたれ、他国からは何をしでかすかわからない奴と恐れられたことであろう。この時期があったから後の信長があるので信長の内も外も基礎形成の時期であると管理人は思う。
2つ目の時期は、足利義昭を将軍位につけるまでの期間である。桶狭間で今川義元を破ってからは、信長の行動をうつけと呼ぶものは、皆無になっていたであろう。この時期には、美濃国を統一し岐阜に居城を移している。美濃を攻略したことで最大の影響は、経済力の確保であろう。
もともと尾張も広大な濃尾平野を有しているため富裕であったが美濃も富裕であり、尾張・美濃を押さえたことにより立地面でも経済面でもそれまでとは、比べものにならないものになったと思う。交通の要所でもある岐阜の城下は、信長の常識を覆す「楽市・楽座」政策によって非常な活気につつまれ豊富な資金を生み出しただろう。
しかも近江の浅井長政と同盟をしたことにより当時鉄砲の産地であった近江鍛冶衆にも容易に注文を出すことができるようになり、潤沢な資金をつぎこんだことは想像できる。信長が天下布武を念頭に置くようになったのも容易にうなずける。この絶大な経済力と軍事力を背景に当時、流浪をしていた足利義昭を擁して、京都に上洛し義昭を足利幕府15代将軍にすえたのだろう。2つ目の時期は、経済基盤確保の時期であると管理人は考える。
そこで3つ目の時期であるがこの時期は、信長にとって非常に厳しい時期になる。第1次・2次信長包囲網が形成されるのである。1次も2次も首謀者は、信長によって将軍になった足利義昭である。この時によると信長は、より一層の領土拡張を目指している。
諸大名は、信長に脅威を感じるのと同時に何とかして食い止めようと考える。足利義昭は、自分の行動は信長によって牛耳られているので何も出来ずに不満が高まっていた。そこで義昭は、将軍の命で浅井・朝倉・比叡山・武田等に信長討伐を命じる。彼らも信長の脅威を食い止めたいので呼応したのである。
各地で信長に対して戦が起こり、信長は窮地に陥る。包囲網大名の中でも最大の大名は、武田信玄であろう。事実信玄は、信長の同盟者である徳川家康と信長の連合軍を退け上洛をうかがっていた。しかし信玄は病で病死をしてしまい、信長は九死に一生を得るのである。
この後態勢を立て直した信長は、将軍義昭を京都から追放する。浅井・朝倉連合軍を破り当主である朝倉義景・浅井長政は、それぞれ自害した。包囲網を打破した信長は、畿内を統一し長篠の戦いにて武田勝頼を破り、東の脅威を完全に無くした。
信長は、安土に安土城を築きはじめるがその矢先に再び足利義昭が諸大名に信長包囲網を呼びかける。この時期義昭は京都から追放されていたが将軍の地位にあったため権威はあったのである。2次包囲網の盟主は、上杉謙信で信長は、窮地に陥るが、またも謙信の急死により、信長は態勢を立て直し包囲網を打破するのである。
3つ目の時期は、信長最大の危機の時期であった。しかし、この時期を乗り切ったことで信長に対抗できるのは、西の毛利家・東の北条家位になっており、天下を獲るのは、時間の問題になった。この意味では、3つ目の時期は忍耐の時期であったのだと管理人は思う。
4つ目の時期は、安土城を築城し信長は自ら動かずとも重臣に地方地方の統一を任せる絶対的君主の地位を確立していた。力のない大名は、安土城の威容を見ただけで信長に忠誠を誓うようになる。その意味では、信長の最盛期であるといえる時期である。しかし最盛期であるがゆえに本能寺の変で部下の謀反を露ほどにも思っておらず、その激動の人生をあっけなく終わらせてしまったといえる。
織田信長は、文頭にも書いたが乱世が生んだ英雄である。管理人は、信長は時代の先を見すぎていたのだと思う。当時の人の感覚では、未来人がいきなり日本にやってきたような感覚であったのではないだろうか。おそらく信長は、自分自身のみを信じており、自分の考えが今わからなくても後でわかる時が来ることを天性の才で悟っていたのではないか。
信長は、民の目線と絶対君主の目線を両方持っていたのだと管理人は思う。楽市楽座で商業を発展させ、従来半農半兵の常識を専用の兵士を作る事で生活を安定させ、異国の文化を取り入れることで日本全体の国力を底上げする。その一方で反抗的・害をなすものを躊躇なく殺害する。
信長は、地球儀を所持しており、日本の小さいことを熟知していた。信長は、世界と対等の国力を目指していたのではないか。しかしそれは、信長だからこそ実現できることで他のものでは、できないのだろう。だからこそ徳川家康は、鎖国を推し進めたのだろう。信長は、天下を統一しても平和を願っただろうか。管理人は、彼は常識を覆す乱世の申し子であるので平和を望まないようにも思える。
信長が死去したことは、平和のために時代の風が命じたことなのだろう。信長が乱世の風を統一へと導き、秀吉・家康と経由することで、平和の風に変化したのだろう。やはり織田信長は、戦乱が生んだ英雄だったのだと管理人は強く考える。
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