お城解説
人吉城は市内中央部を流れる球磨川ととその支流胸川を天然の堀として、東側と南側は山の斜面を天然の城壁とし巧みに自然を利用している要害である。
源頼朝に仕えた遠江国相良荘国人の相良長頼は元久2年(1205年)肥後国人吉荘の地頭に任ぜられた。もともとこの地には、矢瀬主馬佑が城を構えていたが、長頼は主馬佑を滅ぼし、城を拡張し人吉城の基礎を造った。この時三日月型の石が出土したため別名を三日月城
とさえたといわれる。
戦国時代になると相良氏は球磨地方を統一する。その後、19代当主の相良義陽により城の大改修が始められた。戦国時代の相良氏は南の島津氏や北原氏、北の大友氏などに絶えず脅かされよく耐えていたが天正9年(1581年)に島津氏に降伏し臣従するがその後、羽柴秀吉によって再び独立領主として人吉城と領地を安堵された。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは当初は石田三成方(西軍)に付き伏見城などを攻めるが、本戦で石田方が敗れると徳川方(東軍)に内応し戦功を挙げ、徳川家康より2万2千石の領地を安堵された。江戸期に入り22代頼寛によって再び大改修をし、人吉城は漸く近代城郭に生まれ変わった。
享和2年(1802年)には城内から出火、文久2年(1862年)2月には城下町の鍛冶屋から出火があり大火となり、この2度の火災で城は全焼した。後に一部は再建された。明治4年(1871年)廃藩置県により廃城となった。明治10年(1877年)に起こった西南戦争では西郷隆盛軍の拠点となり戦闘が行われた。この際に幕末に再建された建造物も全焼した。その後、人吉城跡は、人吉公園として整備され今に至る。