お城解説
江戸時代の1601年(慶長6年)に島津忠恒(家久)により築城される。上山城跡である城山とその麓に築かれた鶴丸城で構成された平山城である。南北朝時代には「上山城」という上山氏の居城であったが、後に島津氏に明け渡され、その後島津氏は城山の東麓に屋形を築いて居城した。
関ヶ原の戦いで西軍に属して敗れた後、東軍として勝利した徳川家康の脅威に対抗する手段として、当時の内城に代わる城として鶴丸城の構築を開始し、1604年(慶長9年)に完成する。
当時より海岸に近いこの地は防御に問題があり城を築くのに適さないとされていたがその懸念は、数百年後、幕末の薩英戦争の時に義弘の懸念は現実のものとなり、イギリス軍艦から奥御殿に砲弾を何発か打ち込まれるなど脅威にさらされることになった。
鹿児島は災害の多い地域でもあり、鹿児島城も幾度となく焼失・倒壊し、そのたびに建て替えが行われた。しかし1874年(明治7年)に焼失したのちは再建されることはなかった。現在は、石垣や堀、西郷隆盛の私学校跡地である出丸跡、大手門との間に架かる石橋が現存している。私学校の石垣には西南戦争の際についたといわれる弾痕が多数残っている。