お城解説
建武2年(1335年)、建武の新政の功臣名和長年の子・義高は肥後国八代荘の地頭職を獲得し、一族の内河義真を地頭代とし義真は八代に下向して八代城(古麓城)を築いたのが始まりである。
15世紀の後半には、八代への進出を目指す人吉城主相良氏と名和氏との抗争が繰り返されるが、永正元年(1504年)に名和氏は北の宇土城に退き、以後相良氏が八代城を拠点として肥後南部の戦国大名に成長する。
豊臣時代には、豊臣氏の直轄領となり、後に小西行長領に組み込まれる。小西行長が関ヶ原の戦いに敗れて斬首されると、加藤清正が肥後一国(球磨郡・天草郡を除く)を与えられ、家臣の加藤正方が麦島城代となった。一国一城令が敷かれた後も存続を許されるが元和5年(1619年)、大地震のために倒壊し廃城となった。
麦島城の倒壊後、清正の子・加藤忠広は幕府の許可を得て前川の北岸・松江の徳淵の近くに新たに城を築いた。寛永9年(1632年)、加藤氏が改易されると、豊前小倉藩主だった細川忠利が熊本藩主となり、忠利の父・細川忠興(三斎)が八代城の北の丸を隠居所とした。後に筆頭家老でかつ将軍直臣の身分も持つ松井興長(長岡佐渡守)を八代3万石の城主とした。以後明治3年(1870年)の廃城まで代々松井氏が居城とした。
築城時は、本丸の北西隅に4層5階の大天守と2層2階の小天守、7棟の櫓(江戸期に落雷により多くを消失し再建されず)をはじめとする建物があった。城の石垣には石灰岩が用いられ、その色から別名「白鷺城」とも呼ばれた。