お城解説
文禄4年(1595年)豊臣秀吉の家臣・寺沢広高がこの地に封ぜられたのが最初である。その後、広高は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍方につき、肥後国天草郡4万石を加増され12万3千石の外様大名となった
慶長7年(1602年)より本格的な築城を行い、慶長13年(1608年)に完成した。この時、本来東唐津側と地続きであった満島山を切り離し、松浦川がそこから唐津湾に注ぐよう流路を変更した。二の丸に藩庁御殿が建築され、三の丸は侍屋敷となっていた。天守は天守台までしか建築されず、天守は建設されなかったとされている。
広高は、土木事業に長けており、防風林として松原の保護育成を行った。これが日本三大松原として今日に残る虹の松原となっている。しかし広高の子堅高は、嗣子がおらず自殺したため改易され、その後は譜代大名5家が入れ替わりこの地を治めた。
明治時代に入ると廃藩置県により廃城となり、払い下げにより建造物が解体され、舞鶴公園として整備、開放された。昭和に入ると文化観光施設として5層5階の模擬天守が築かれ、門・櫓も同時に再建された。