伊達政宗
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略歴
1567年9月5日、出羽米沢城にて伊達家第16代、当主伊達輝宗の嫡男として生まれる。1577年に元服後、1579年三春城主、田村清顕の娘愛姫を正室とする。
1581年15歳にて初陣し勝利を収める。1584年、18歳で家督を相続し、伊達家17代を継承する。1589年、会津の蘆名義広・佐竹氏の連合軍と戦い勝利を収め、
会津地方を征圧し黒川城に拠点を移す。1590年、小田原征伐中の豊臣秀吉の下にくだり会津領を召し上げられる。
1600年、関ヶ原の戦いにてかねてより親密な徳川家康側に属す。
1601年仙台城を築城し、62万石の仙台藩が成立する。2代将軍秀忠、3代将軍家光の時代まで生き、1636年江戸にて死去。
伊達政宗とは
伊達政宗は、奥州の名家(俗に奥州探題の家)の嫡男である。ただ幼い頃天然痘を患い右目を失明することによってそれからの人生が順風満帆では
なくなり、波乱に満ちた人生になったように思う。
父、輝宗は臨済宗の虎哉宗乙禅師を米沢に招き、5才の政宗を預け、仏教、漢学等厳しい教育を施した。これは、輝宗が隻眼になった政宗が内気に
なったのを治すため、将来隻眼の顔を馬鹿にされてもそれを跳ね返す教養を身につけさせるためとも言われている。
実際、この教育がベースになり文武両道に秀でて高い文化人として成長していった。あわせて政宗には、軍師であり兄とも言える片倉小十郎、勇猛果敢な侍大将、伊達成実の両家臣を得た時期である。
政宗は、たった10歳で元服、12歳で結婚、15歳で初陣、18歳で家督相続する。これは、全てに関して早めである。これは、父輝宗が政宗の器量を早くから見抜き、
責任感を持たせることで政宗の成長を促したと言えるだろう。
そして政宗をさらに成長させる事件が起こる。20歳を前に父輝宗を自身の手で殺さなければいけなくなったのである。当時畠山義継が和議のため米沢を訪れ、
輝宗を拉致し人質にして逃げ帰ろうとした所を政宗が父もろとも鉄砲で皆殺しにしたのである。
人質になり息子が不利な状況にならないため輝宗が命じたというが20歳前の青年が父を自らの号令で殺すということは心情を察するに余りある。この頃から政宗は、
がむしゃらに突き進んでいく。
若干21歳で強敵蘆名義広・佐竹氏の連合軍を破り葦名氏の居城黒川城に
本拠を移すのである。この時政宗の領土は、100万石を超え陸奥の若者が日本屈指の大名に成長する。
しかしこの頃天下人豊臣秀吉が北条征伐で小田原征伐軍の動員のため、政宗に召集を命じてくる。これに従えば即ち豊臣秀吉の家臣になることである。若い政宗は、
さぞかし悔しかったろうが結果的に秀吉に従うことに決める。(会津の所領は全て没収されてしまった)
これに関連して母と弟が政宗の暗殺を企てるが政宗自ら弟を斬っている。これは、母は斬ることができないので弟を斬ったということになっているが仕方が
無いこととはいえ肉親を2人も自らの手で殺してしまった心境はどれほどのものだろう。
豊臣秀吉に下った後も、政宗はその恵まれた才覚でめまぐるしい活躍をし、秀吉に重宝される。秀吉の死後、娘五郎八と徳川家康の息子
忠輝を婚約させ、徳川家康に近づき関が原で東軍につき、所領を安堵される。
この時家康が政宗に対して勝利のあかつきには、50万石近くの加増を約束する俗に言う100万石のお墨付きを送っている。しかしこれは政宗が戦のどさぐさまぎれで
領土拡張を画策したのがばれて反故になってしまった。結果江戸幕府での領地は、62万石となり全国3位の石高になる(ただし土地にも海にも恵まれた仙台藩は実高は100万石を
優に超えていた)平安の世が訪れた時、30半ばの政宗は、満足はできなかっただろうと思う。
それから、スペインに使者を送ったり、領土の整備を行い、善政を敷き3代将軍家光の頃まで生き、戦国生き残りの猛者として幕閣に影響力を持ち続け、70歳で死去した。
総評
伊達政宗を評するとき「10年生まれるのが早ければ」とよく言われる。
政宗が生まれた1567年は、織田信長が足利義昭を奉じて京に上ろうと準備をしていた頃であり、家督を継いだ1584年は、信長が本能寺で死去し、豊臣秀吉が完全に織田軍団を掌握し天下統一に本腰を入れ始めた頃である。その意味で政宗が台頭してきた頃には、天下を狙う位置にも登らせてもらえなかったと言える。
政宗は、文武に秀で高い教養と伊達ものと言われたように美的センスにも優れていた。武将でなくとも一級の人物になったであろう。21歳で日本指折りの大名に
なったもののそれからの人生は、天下人の家臣として生きるのは、さぞ悔しかっただろう。
スペインに使者を送ってスペイン艦隊と協力をして天下をとろうとしたり、大阪の陣で家康が江戸を留守にしている間に江戸城を落として天下を奪おうとしたり
死ぬまで野心を持ち続けたとされている。その反面仙台では善政を敷き、家臣領民から絶大なる信頼を受け、実高では日本一という仙台藩の基礎を築く。
家康も大阪の陣の後政宗に「中納言(政宗)の目から見て今の世がだめなら奪い取ってもかまわない。息子達では、中納言の相手にはならない」と面と向かって
話したというがおそろしく懐と器の大きい人物であったのだろうと容易にわかる。
70歳にして死去した政宗は間違いなく最後にして最大の戦国大名であっただろう。
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