長宗我部元親
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略歴
天文8年(1539年)、土佐の豪族である長宗我部国親の長男として土佐の岡豊城にて生まれる。長宗我部家は、本姓は秦氏で秦の始皇帝を祖とする家柄であると伝わる。
初陣は遅く永禄3年(1560年)5月、土佐郡朝倉城主の本山氏を攻めた長浜の戦いにおいてであった。同年6月、父の国親が急死すると、家督を相続する。
元親は、当初土佐国司で中村城を中心に影響力を持っていた公家大名一条氏と共同し力を蓄えており、永禄6年(1563年)には長弟の親貞に吉良氏を継がせている土台を固めている。
そして1567年(永禄10年)毛利氏の伊予出兵によって勢力を激減させた一条兼定からの自立を画策するようになる。
永禄11年(1568年)に宿敵の本山氏、永禄12年(1569年)には安芸氏をそれぞれ滅ぼし、元亀2年(1571年)には、一条氏の家臣津野氏を滅ぼした。天正2年(1574年)には一条氏の
当主一条兼定を追放し、天正3年(1575年)に兼定と四万十川の戦いで決戦をし撃破、土佐を完全に統一した。
土佐統一後、中央の織田信長と同盟を結び、伊予や阿波、讃岐へ侵攻していく。阿波・讃岐方面では、機内で大勢力を誇っていた三好氏が織田信長に破れ衰退しており、
天正5年(1577年)に三好長治が戦死すると阿波や讃岐に侵攻し、天正6年(1578年)には次男の親和を讃岐の有力豪族・香川氏の養子として送り込み、天正8年(1580年)までに両国をほぼ制圧した。
元親の四国平定の動きに警戒感を強めた織田信長は、元親に対し臣従するよう迫るがこれを拒絶し織田信長との対立が決定的になった。後に信長は、四国征伐軍を編成し元親は窮地にたたされるが
天正10年(1582年)、本能寺の変で織田信長が討たれたことにより危機を脱する。
信長の家臣団を引き継いだ羽柴(後に豊臣)秀吉と対立し、秀吉が送り込んだ仙石秀久を撃退している。天正13年(1585年)には西園寺公広や河野通直らを降して伊予を制圧し、
四国全土77万4100石(太閤検地の数値)をほぼ統一することに成功した。天正13年(1585年)、秀吉から阿波・讃岐の返納命令が下るとこれを拒否。すぐさま秀吉は、
弟羽柴秀長を総大将とする四国征伐軍を編成し、10万を超える軍が押し寄せた。この軍に抗いきれなくなった元親は降伏し、土佐一国以外は没収された。
天正14年(1586年)、秀吉の九州征伐に嫡男の信親とともに従軍したがこの戦いで信親が戦死している。天正16年(1588年)、本拠地を大高坂城へ移転し嫡男の信親を失ったため家督継承問題が勃発し、
次男・三男ではなく四男の盛親を指名した。天正20年(1592年)から朝鮮出兵(文禄・慶長の役)にも従軍し、慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると徳川家康と誼を通じるが慶長4年
(1599年)4月、上洛して間もなく病に倒れ療養中の5月に死去。享年61.
長宗我部元親とは
長宗我部元親は、戦国時代土佐の小豪族から四国統一を成し遂げた一代の英傑である。若年の頃は、長身だが色白で大人しかった為周りからは、「姫若子」と呼ばれ軽んじられていたと言われている。
そんな元親であったが遅い初陣を飾ってから事態は好転する。大人しいと軽んじていた者達の前で自ら槍を持って突撃したのである。通常初陣であれば尻込みをしても良しとされるがそこで
肝の太い大器の片鱗を見せたことで長宗我部家の跡取りとして周りから認められるようになった。同年に父国親が死去したのも気がかりだった息子が立派に成長してくれた安心もあったのではないか。
当時土佐には公家大名といわれる一条氏が勢力を誇っていたが当初元親は、一条氏と共同する方針をとった。しかし裏では、永禄6年(1563年)に長弟の親貞に吉良氏を継がせており、
父の代に香宗我部氏を継いでいた次弟の親泰と共に周辺地域を着実に支配下においていった。
元親は、自身の地盤を着実に固めていく過程で一条氏の助けが必要ないことを悟り一条氏からの脱却を図るようになった。その大きな景気が毛利氏による伊予侵攻である。これで著しく疲弊した
一条氏を横目に精鋭である一領具足(半農半兵)を巧みに使い近隣有力豪族を次々と撃破し、一条氏の重臣である津野氏を滅ぼし自身の三男親忠を養子として送り込んだ。
これで勢いにのった元親は、一条氏を土佐から追放し、四万十の戦いで元親が弟、息子達を養子に送り込んだ家々の助けもあり一条氏を滅ぼし土佐を統一できたのである。ここは、
中国地方の覇者毛利元就や東北の伊達種宗の戦術によく似ている。
土佐を手中に収めた元親の次の狙いは、四国統一である。折も折畿内では、織田信長が勢力を伸ばし畿内・讃岐・阿波を領国に持つ三好氏が信長に敗戦し衰退しており、
当主長慶の死をもって家臣団は崩壊していた。そこで元親は、信長と同盟を結び阿波・讃岐に侵攻をし次男の親和を讃岐の有力豪族・香川氏の養子として送り込み程なく両国を手中に収めるのである。
天正8年(1580年)、同盟関係にあった信長は急速に力を持ち始めた元親に警戒感を強め、土佐と阿波の所領安堵を認めるので臣従せよと元親に迫る。しかし元親は、拒絶し信長と敵対関係になり信長の助力を得た諸豪族の猛攻・信長による四国征伐の編成により窮地に立たされる。
しかしここで戦国の世を揺るがす大事件(本能寺の変)が起こり信長が死去する。この機に乗じて元親は、瞬く間に阿波・讃岐を再度支配下に置き、信長の家臣団を受け継いだ羽柴秀吉と対立を続けながら
天正13年(1585年)には西園寺公広や河野通直らを降して伊予を制圧し四国全土77万4100石を統一することに成功するのである。
念願の四国を平定した元親だったがわずか10日余り後に完全に織田軍団を掌握した羽柴秀吉が弟羽柴秀長を総大将とし10万を超える四国征伐軍を編成し、讃岐・伊予・阿波3方から攻めてきたためこれに抗いきれず降伏し、
讃岐・伊予・阿波を没収され土佐1国にされてしまうのである。
それからは、秀吉の家臣として九州征伐に従軍しこの戦で嫡男である信親を失っている。天正16年(1588年)、本拠地を大高坂城へ移転し同じ頃、世継ぎを4男である盛親に決定している。その後も小田原征伐に水軍を率いて参加・朝鮮出兵にも従軍した。
慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると徳川家康に誼を通じるが翌年上洛中に伏見で死去してしまい、跡を継いだ盛親は関が原の戦いで西軍として参戦し長宗我部家は、取り潰されてしまうのである。
総評
長宗我部元親は、1豪族の「姫若子」から「土佐の出来人」と呼ばれるまでになった戦国時代における四国の象徴である。元親は、生涯一環して攻めを貫いている。おそらく初陣の折に自ら槍を持って突撃した事が元親の生涯の方向性を決めたのだろう。
ただ攻めの姿勢だけでは、当然四国統一などできるわけもない。元親は、智謀にもかなり秀でいたと考えている。これは、元親が早い段階から弟や息子を有力な地方豪族の養子として送り込んでおり、地盤を固めてから次に進んでいることからもよくわかる。
そして土佐統一から約20年かけて四国統一を成し遂げたのである。
しかし最終的に土佐1国の領主で終わり死去後数年で家は、取り潰されてしまうことになる。ここに元親のある意味小ささがあるのではないか。元親は、当初土佐統一を目標としていたのでは、ないだろうか。そして土佐統一後に四国統一を考えたのではなかろうか。
どういうことかというと管理人は、元親は、信長を始め後に英傑といわれる武将と同等の戦術の才能があったのではないかと考えている。
ただ、見ている風景が狭すぎたのだと考えている。信長は、尾張を統一したときから天下統一を志し、世界進出も視野に入れていたという。大きな視野があるということは、集める情報量もまった違ってくるのである。
元親は、信長の力が強大だということは知っていただろうが抵抗してしまった。織田軍団を継いだ秀吉にも抵抗をしてしまった。彼らの情報があれば彼らは力さえあれば栄達もありえるとわかったであろうに。
加えて秀吉の四国征伐の時、元親を象徴していることが起きている。形勢は火を見るよりも明らかにもかかわらず元親は、命より名を残せでは無いが徹底抗戦をするのである。これが一人の武将であれば管理人も賞賛するが
彼は、四国4カ国を預かる領主である。これまでに自分が滅ぼしてきた家がどうなったか見ているであろうにそういう決断をした。領主の選択としてはしてはありえない事だと考えている。
結果、家臣の命がけの説得で秀吉に降伏をするのだが代償はあまりにも大きかった。追い討ちをかけるように嫡男信親をも失っている。この信親は元親に勝るとも劣らない大器を持った息子であったようなのでおそらくこの事で元親自身も死んでしまったのであろう。
養子に出ていたとはいえ、次男・三男を差し置いて四男を跡継ぎにしてしまうのである。
当時まだまだ乱世であったため、何も知らない四男では家は持たないことは十分考えられたはずなのにそうしなかった事からも元親の落胆度合いがわかるようである。この事は、後に長宗我部家が関が原の合戦で西軍につき大坂の陣でも大坂方についた事でもはっきりしてしまった。
元親が独立領主でなく一人の将であれば名将として力の限り存分に働けたのであろうと管理人は思う。
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