真田昌幸
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略歴
天文16年(1547年)、武田家臣である真田幸隆の三男として生まれる。天文22年(1553年)、武田氏への人質として7歳で甲斐へ下り、武田晴信(武田信玄)の奥近習衆に加わった。天正2年(1574年)には父の幸隆が死去し、天正3年(1575年)の長篠の戦いで長兄信綱と
次兄・昌輝が死去し家督を継ぐ。
天正11年(1583年)、昌幸は千曲川領域を抑える城として上田城を築城し、城下町を作る。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦い
で徳川軍を上田で釘付けにするが西軍が破れ、紀伊高野山山麓の九度山に蟄居する。慶長16年(1611年)に病没、享年65歳。
子に信之、信繁(幸村)等
真田昌幸とは
真田昌幸は、武田信玄の重臣である真田幸隆の三男として生まれる。幸隆は、武田家では外様であるにも関わらずその智謀で信玄から譜代同様に遇せられ武田二十四将に数えられている。
昌幸は、天文22年(1553年)、武田氏への人質として7歳で甲斐へ下り、武田晴信(武田信玄)の奥近習衆に加わった。信玄は昌幸の父・幸隆にも劣らぬ才能を早くから見抜いて、「我が眼」と称して寵愛したと伝えられている。昌幸は永禄年間に信玄の母系・大井氏の支族である武藤家の養子となり、「武藤喜兵衛」を称し足軽大将に任じられた。
永禄4年(1561年)の第四次川中島の戦いで初陣を飾り、永禄12年(1569年)、後北条氏との三増峠の戦いでは使番を務め、元亀3年(1572年)からの信玄の西上作戦に参陣し、12月の三方ヶ原の戦いにも参加している。元亀4年(1573年)4月、信玄が病死すると家督を継いだ武田勝頼に仕えた。
天正2年(1574年)には父の幸隆が死去する。このとき既に真田氏の家督は嫡男・信綱が継いでいたが天正3年(1575年)の長篠の戦いで信綱と次兄・昌輝が討死したため、昌幸は真田姓に復して真田氏の家督を相続した。
天正6年(1578年)、越後国の上杉謙信死後に甲越同盟が成立すると昌幸は北条氏の所領であった東上野国の沼田領へ侵攻し、沼田城や名胡桃城などを奪取する。天正10年(1582年)、武田氏滅亡後、昌幸は織田信長の家臣となって本領を安堵され、織田家の重臣・滝川一益の与力武将となった。
織田氏に従属してから僅か3ヶ月後の天正10年(1582年)6月、本能寺の変で織田信長が横死すると、甲斐・信濃・上野の空白地帯をめぐって徳川家康・北条氏直・上杉景勝らが争う。ここで昌幸は、北条→徳川に臣従するが家康の政策に納得せず最後は、上杉に臣従する。
天正11年(1583年)、昌幸は千曲川領域を抑える城が必要になり、川の北岸、沼、崖などの自然を要害とする地に上田城と、その周囲に城下町を築いた。天正3年(1585年)、真田氏の制圧を狙った家康と氏直は、約7,000の兵力を昌幸の居城・上田城に、北条氏邦を沼田城に侵攻させた。 昌幸はわずか2,000の兵力で徳川軍に1,300人もの死傷者を出させるという大勝をおさめている。
同年には次男の信繁(幸村)が景勝の人質から盟主である豊臣秀吉の人質として大坂に出仕し、昌幸は豊臣家に臣従する。文禄元年(1592年)、秀吉の朝鮮出兵に際しては肥前名護屋城に在陣している。
1600年の関ヶ原の戦いでは、嫡男の信之と離れて西軍につく。ここで東軍先鋒・徳川秀忠の部隊およそ3万8,000の大軍は江戸を発して中仙道を下り、9月6日(10月12日)には上田城攻略を開始する。昌幸は僅か2,000の兵力で篭城して迎え撃ち、関ヶ原の戦いの前哨戦である第二次上田合戦が行われ、結果秀忠は、攻略しきれず迂回して関ヶ原に向かうことになった。
しかし関ヶ原の戦いでは、西軍が敗れたため次男の信繁(幸村)と共に紀伊高野山山麓の九度山に蟄居することとなり、慶長16年(1611年)にこの地で病没。享年65。
総評
「真田日本一の兵」と言われた信繁の父である。管理人は、真田昌幸こそ戦国時代が生んだ「一番戦国大名らしい」人物であると思う。
昌幸は、幼い頃より人質先の武田信玄から父親譲りの才を非常に愛された。昌幸には、上に信綱・昌輝がおり、この両兄弟父幸隆と共に武田24将に数えられていることからも大変な人物であったと思われる。このため、真田を継ぐことはできないため、信玄の母系の支族である武藤氏の養子となる。信玄が自分の一族へ養子にやるということからも昌幸の才を非常に買っていたことがわかる。
信玄の目に狂いは無かったことが後年になってよくわかる。昌幸は、武田家が滅亡してから小大名ながら絶妙な駆け引きで自分の値打ちを上げながら真田の家を守るため、戦国の世を渡っていく。
昌幸が大名間を渡り歩いたことからよく言わない人がいるが管理人は、戦国の世を小大名が生きるためには、鞍替えは必要であり、むしろそのたびに値打ちをあげた昌幸の才は、すばらしいと思う。そして昌幸がそれだけではないことがよくわかるのが徳川家の攻撃を僅かな兵で2度も退けたことである。
徳川家康本人が指揮をとっていなかったにせよ、当時圧倒的な戦闘力をもった徳川軍団から2度も勝利をおさめたのは、彼しかいないのは事実であり、兵数ではなく戦術で勝つのは、父幸隆、信玄譲りであると思う。
信玄に認められた才・三男にも関わらず家督を継げた幸運・わずかな所領ながら自分の智謀だけで天下に名を響かせ戦国期に所領を守りきり・徳川軍に2度勝つ
(徳川家康が2度負けた武将は、昌幸だけである)そして何より、江戸時代を通して真田が大名で通せたのは、昌幸が息子信之を若い頃から徳川に近づかせた先見の賜物である。
大坂の陣で家康が震えながら大坂城に入ったのは、昌幸か?信繁か?と聞いた逸話はあまりにも有名である(実際は大坂の陣の数年前に昌幸は死んでいるのでありえないが
そういう逸話が残ること自体が昌幸の力が余計わかる逸話である)
幸村の名があまりにも有名で影に隠れがちだが間違いなく幸村より実力があり、昌幸が大坂の陣にいたらどうなったのだろう?という幻想を描いてしまう人物である。
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