小早川 隆景
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略歴
天文2年(1533年)、毛利元就の三男として生まれる。天文11年(1541年)に竹原小早川氏の当主・小早川興景が死去。当時中国地方で強大な勢力を持っていた大内義隆の強い勧めもあり隆景は、小早川氏の養子となる。
天文16年(1547年)、大内義隆が備後神辺城を攻めたときに従軍し、初陣を飾る。天文19年(1550年)、竹原小早川氏の本家である沼田小早川氏の家督を継ぎ、両小早川氏を統合する。
弘治元年(1555年)の厳島の戦いにおいて、陶晴賢率いる大内水軍を破って海上を封鎖し、毛利軍の勝利に大いに貢献する。元就の隠居後、長兄の隆元が家督を継ぐと次兄の吉川元春と共に中枢となり、永禄6年(1563年)、隆元が急死し、甥毛利輝元が家督を継ぐと、元春と共に幼少の輝元を補佐した。
永禄5年(1562年)から永禄9年(1566年)にかけての月山富田城の戦いで、宿敵尼子氏を滅ぼし、続く永禄10年(1567年)には河野氏を助けて伊予に出兵、さらに大友氏と争い九州に出兵する。
天正2年(1574年)に入ると、織田信長の勢力が毛利氏の勢力範囲にまで迫るようになり、以後織田氏と敵対する。天正10年(1582年)、信長が明智光秀によって本能寺の変で死去すると羽柴秀吉は、信長の死を伏せたまま毛利氏と和睦する。
天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは中立を保ったが、この戦いで羽柴秀吉が柴田勝家を破ると秀吉に従属した
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その後は秀吉に積極的に協力し、天正13年(1585年)の四国攻め、天正14年(1586年)からの九州の役にも参加し、戦後に秀吉から筑前・筑後・肥前1郡の37万1300石を与えられた。その後は、天正18年(1590年)秀吉の小田原の役、朝鮮出兵にも従軍した。この後に、5大老の一人に任じられたとされる。
文禄3年(1594年)には豊臣氏から羽柴秀俊を養子に迎え、翌年の文禄4年(1595年)には家督を譲って隠居し、慶長2年(1597年)6月12日に死去。
小早川隆景とは
小早川隆景は、毛利氏になくてはならない名参謀である。隆景は、後に稀代の策略家として中国地方のほぼ全域を支配する、毛利元就の3男として生まれる。長兄隆元、次兄元春の同母弟となる。
天文11年(1541年)に竹原小早川氏の当主・小早川興景が死去。嗣子がいなかったために大内義隆の強い勧めもあり義隆の偏諱を賜い隆景と称し、小早川氏の養子となり家督を継ぐ。元就の姪が小早川興景の妻だった事もあり、この養子縁組は平和裏に進んだといわれる。
隆景は、初陣で小早川軍単独で敵の支城を落とすという功を挙げている。この時、小早川氏の本家・沼田小早川氏の当主であった小早川繁平は若年で病弱な上、盲目となっていたため、家中は繁平派と隆景擁立派で対立していた。
繁平に不安を持つ大内義隆と隆景に小早川本家を継がせたい元就が共謀し、尼子氏との内通の疑いで繁平を拘禁し、隠居・出家に追いこみ、隆景を繁平の妹に娶せ、沼田小早川氏を乗っ取る形で家督を継がせ小早川氏を統合した。隆景は沼田小早川氏の本拠高山城に入城するが、翌年に新高山城を築城し、新たな本拠とする。
以後の小早川氏は毛利一門に組み込まれ、毛利氏直轄の精強な水軍として活躍していく。弘治元年(1555年)の厳島の戦いにおいて、陶晴賢率いる大内水軍を破って海上を封鎖し、毛利軍の勝利に大いに貢献、この戦で毛利氏が一躍世に出たことは周知の事である。このとき隆景は、村上水軍を味方に引き入れる調略でも功を挙げている。
弘治3年(1557年)に周防・長門を攻略し、大内氏を滅ぼし、元就が隠居し、長兄の毛利隆元が家督を継ぎ、隆景は兄の吉川元春と共に引き続き毛利氏の中枢にあり、永禄6年(1563年)、隆元が急死し、甥毛利輝元が家督を継いだ後も元春と共に幼少の輝元を補佐し毛利両川と言われる。
元春が軍事面を担当したのに対し、隆景は水軍の情報収集力を活かし主に政務・外交面を担当していた。永禄5年(1562年)から永禄9年(1566年)にかけての月山富田城の戦いで、宿敵尼子氏を滅ぼす。続く永禄10年(1567年)には、伊予に出兵し大洲城を攻略し宇都宮豊綱を降伏させ、さらに大友氏と争い九州に出兵する。元亀2年(1571年)に元就が死去すると、毛利氏の中での2人の役割はますます大きくなり、大友氏や尼子氏、大内氏の残党らと争い各地を転戦する。
天正2年(1574年)に入ると、織田信長の勢力が毛利氏の勢力範囲にまで迫るようになる。天正4年(1576年)、鞆に落ち延びてきた将軍足利義昭の強い誘いもあり、毛利氏は織田氏と断交し、元春が山陰、隆景が山陽を担当し、第2次信長包囲網の一角として織田方と戦うこととなる。
織田方の中国方面軍司令官である羽柴秀吉の攻略は次第に激しさを増し、毛利氏は押され続けることとなる。備前の宇喜多直家が織田方に離反したことを皮切りに天正8年(1580年)には、播磨三木城が陥落。さらに天正9年(1581年)には因幡鳥取城が餓死者が出る籠城戦の末陥落した。
天正10年(1582年)には清水宗治が籠る備中高松城が包囲され、隆景は輝元・元春と共に毛利氏の主力3万を率いて救援に赴いた。しかし当初から勝利の確立が薄いと考えていた隆景は、秘密裏に羽柴秀吉と交渉を開始する。本能寺の変で織田信長が死去したことで秀吉側と講和を結んだ。
天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは中立を保ったが、この戦いで羽柴秀吉が柴田勝家を破ると、毛利氏は日和見路線を捨て、秀吉に従属した。その後隆景は、秀吉に積極的に協力し、四国征伐、九州の役にも参加し、戦後に秀吉から筑前・筑後・肥前1郡の37万1300石を与えられた。しかし、この戦で兄の吉川元春とその嫡男・元長が相次いで陣没したため、この後、隆景は一人で輝元を補佐し、毛利氏を守っていくことになる。
小田原の役、文禄の役(第一次朝鮮征伐)にも出兵しこの頃、豊臣秀吉より5大老に任じられたとされる。文禄3年(1594年)には豊臣氏から羽柴秀俊を養子に迎え、翌年の文禄4年(1595年)には家督を譲って隠居し、慶長2年(1597年)6月12日に死去。
総評
小早川隆景は、稀代の参謀にして忠実な毛利家の家老である。父である毛利元就は、地方の1小豪族であったにも関わらず1代で毛利家を中国地方の覇者にした人物である。そしてその覇業を支えたのが母が同じである長兄隆元、次兄元春、隆景である。
長兄の隆元は、元就に先立って死去してしまったが常に父の側で内政面で支え続けた名2代目であり、次兄の元春は武勇に秀で常に先頭で戦い続け、隆景は水軍という当時一級の情報収集能力を持つ集団を率いて智の面で支えた。毛利家の三本の矢の話は、有名だが実際この同腹の3兄弟が各々の得意分野を最大限に生かし毛利家を中国の覇者にしたともいえる。
毛利元就は、戦国時代の策謀家の典型でありその一つが自分の子供達を拮抗勢力の養子にし、その家を乗っ取ることにある。隆景もその一人で小早川家の分家の養子に入り、後に本家の家督を継いだのである。しかし隆景は、短期間で家を掌握し精強な小早川水軍を作り上げており統率力にも秀でたのがよくわかる。
隆景は、父の元就の知略の才能を色濃く継いでいたといえ、厳島の戦いにおいて瀬戸内の村上水軍を調略により仲間に引き入れるなど、毛利家内では主に政務・外交面を担当していた。長兄隆元と父元就が死去すると当主である輝元を厳しく教育し、輝元の育ての父としての側面ももった。
父である元就が存命の時は、元就が信長の実力を認めていたこともあり敵対はしていなかったのだが元就死去後に、毛利家は将軍足利義昭が提案する信長包囲網に参加し、敵対の道を選んでしまう。元春が山陰、隆景が山陽を担当するのだがこの時、隆景も信長の実力はよくわかっていたのではないだろうか。
本能寺の変で織田信長が死去し、賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉が勝利すると急速に秀吉との誼を深くしていく。秀吉も隆景の実力を高く評価しており、隆景を一大名として扱っていたがどこまでも隆景は、毛利氏の家老という姿勢を貫き、秀吉からもらった所領を毛利本家より貰うという形をとっている。
おそらく小早川隆景は、自分という人物を大将の器ではなく、大将を補佐する参謀だと熟知していたのではないだろうか。言い伝えが残っているのだが父元就の影でぱっとしない隆元のことを次兄元春と隆景は、甘く見ていた。しかし隆元が死去した時、隆元が毛利家の内政面、折衝を全て行い父が一番信頼していたことを知り、元春と共に隆元に対して深く敬服したと言われる。これ以後、元春と共に毛利の両川として一層毛利家の補佐をするようになった。
隆景は、小早川家は毛利家あっての小早川家という思いが強かったのではないだろうか。そして彼は、血縁という意識も強かったと管理人は思う。毛利元就は、多くの子がいたが隆元・元春・隆景は、同じ母から生まれている。そして家督を継いだ輝元は、敬服した隆元の嫡男である。輝元にきびしく教育をしたのは、肉親だからであり恩を忘れることは決してなかったのであろう。
関ヶ原の戦いの時に西軍を裏切り、東軍勝利の最大の立役者である小早川秀秋は、隆景の養子である。隆景には、実子はいなかった。小早川本家を乗っ取る時に出家に導いた小早川繁平の妹を正室としてから側室を置かなかった。理由はわからないが無用な争い(正室・側室の息子同士の家督争い等)を回避すると同時に毛利の三兄弟のように強い血縁関係で家を支えるのが理想だと考えたからではなかろうか。
結果的に豊臣秀吉の甥が養子となり、関ヶ原の戦い後に、本家が大減封され後に小早川家も改易となってしまうのは皮肉である。しかし当初は、毛利本家の養子に秀秋を送り込もうとしていたのを隆景が察知して自分の養子に願い出たとされるのでやはり毛利家の無二の忠臣であると思う。彼が、関ヶ原の戦い時に生き残っていたらどうなっていたのだろうと考えると興味がつきない。
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