佐竹義重
|
略歴
天文16年(1547年)、常陸守護職家である佐竹氏第17代当主義昭の嫡男として生まれる。永禄5年(1562年)、父・義昭が隠居したため、家督を継いで第18代当主となる。永禄8年(1565年)に父・義昭が死去。
永禄9年(1566年)、小田氏治を攻めて小田領の大半を奪取。さらに下野那須郡の武茂氏を攻めて従属させ、永禄10年(1567年)には白河義親を攻めて大勝し、永禄12年(1569年)、手這坂の戦いにて小田氏治に大勝して小田城を奪取した。
元亀3年(1572年)には、白河結城氏を配下に置き、天正3年(1575年)、白河城を奪取する。天正13年(1585年)には伊達氏と対立する二本松畠山氏救援の名目で蘆名氏との連合軍を結成して奥州に出陣し、人取橋で合戦する(人取橋の戦い)が惜しくも撤退した。
天正17年(1589年)、蘆名義広は摺上原の戦いにおいて伊達氏に大敗を喫し、白河結城氏、石川氏といった陸奥南部の諸大名は伊達氏に寝返り、同年、実権は握ったまま長男の佐竹義宣に家督を譲って隠居した。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原の役に参陣し、その後、奥州仕置にも従ったことから、義重は秀吉から常陸54万石の支配権を認められる。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで曖昧な態度をとり、佐竹氏は出羽久保田計20万石に減移封された。そして慶長17年(1612年)4月19日、狩猟中に落馬して死去。享年66。
佐竹義重とは
佐竹氏は、清和源氏の一家系・河内源氏の八幡太郎義家の弟・新羅三郎義光の流れを汲む名族で、義重は、常陸守護職家である佐竹氏第17代当主、義昭の嫡男とし生まれた。義重は、若干15歳で家督を継ぐが実権は、父である義昭が永禄8年(1565年)に義昭が死ぬまでは、実権を持たなかったとされる。
義重は、父・義昭の代から連携していた上杉謙信とさらに連携を強め、下野那須郡の武茂氏を攻めて従属させ、小田氏治に大勝して小田城を奪取するなど義昭死去後、数年で近隣諸国の大名を制圧していく。
しかし、急速な勢力拡大は関東制覇を目指す北条氏政との対立を招き、氏政は元亀2年(1571年)に蘆名盛氏、結城晴朝らと同盟を結んで、佐竹氏に従属する多賀谷政経を攻めた。しかし、このときは援軍を送って北条方を撃退、その後も白河結城氏を配下に置き、白河城を奪取した。
この時、義重の台頭に危機感を持った、北条氏政や蘆名盛氏らより二正面作戦を強いられ、義重は窮地に追い込まれる。これにより結城氏や宇都宮氏と婚姻関係を軸にして同盟を結んで氏政と対抗したり、畿内の羽柴秀吉(豊臣秀吉)と懇意になるなど同盟を重視して味方を増やした。しかし、天正13年(1585年)に下野に進出した北条軍の猛反攻にあって長沼城を奪われ、不利な状況下においての和睦をせざるを得なくなる(沼尻合戦)。
この頃になると、奥州では蘆名盛氏の死後、当主が次々と早世したため蘆名氏の勢力が衰退し、代わって伊達政宗が、積極的に勢力を拡大していた。天正13年(1585年)に義重は、伊達氏と対立する二本松畠山氏救援の名目で蘆名氏との連合軍を結成して奥州に出陣し人取橋で合戦をする。
天正15年(1587年)には、次男の蘆名義広を蘆名氏の養嗣子として入れることで、政宗と対抗し、天正16年(1588年)、奥州の諸大名と連合して再び伊達政宗と戦う。しかし、兵力で圧倒的優位にありながら、逆に諸大名の連合軍だったために諸氏の利害が対立して軍が機能せず、後に和睦をよぎなくされた。
天正17年(1589年)、蘆名義広は摺上原の戦いにおいて伊達氏に大敗を喫し、白河結城氏、石川氏といった陸奥南部の諸大名は伊達氏に寝返る。これにより佐竹氏は南から北条氏直、北から伊達政宗という2大勢力に挟まれ、滅亡の危機に立たされ、同年、長男の佐竹義宣に家督を譲って隠居した。
しかし、天正18年(1590年)、かねてから懇意にしていた豊臣秀吉の小田原征伐が始まると、義重は義宣とともに秀吉軍として参陣し、奥州仕置きにも加わった功により、常陸54万石の支配権を認められ、一気に状況を挽回することに成功した。
そして秀吉の後押しもあり、常陸中部に勢力を振るっていた江戸重通を攻め、水戸城から追い出し、また府中の大掾氏を降した。また、天正19年(1591年)2月には鹿島・行方両郡の南方三十三館と称される鹿島氏など大掾氏一族の国人領主を太田城に招いて謀殺するなどして佐竹氏の悲願であった、常陸国内の統一を成し遂げた。
その後は義宣に完全に実権を譲渡し、太田城にて隠居生活を送っていたが関ヶ原の戦いが起こる。義宣は、西軍に付こうとしたが時流を見ていた義重は、徳川家康の東軍に与するように述べ、父子は対立する。結果、佐竹軍はどっちつかずの格好になり、戦後に出羽久保田計20万石に大減封されてしまった。
久保田移転後は相次ぐ反佐竹一揆に対応するため、義宣とは別に六郷城に居を構え所領南部の見張りを行っていたが、慶長17年(1612年)4月19日、狩猟中に落馬して死去した。享年66。
総評
佐竹義重は、「鬼義重」「坂東太郎」の異名で恐れられた、戦国時代を代表する知勇兼備の名将である。管理人は、年は20歳ほど違うが奥州の名将である伊達政宗と若い頃は、よく似ているところがあると思っている。
義重は、常陸守護職の跡取りで源氏の名門である。伊達政宗も奥州探題の名族の嫡男である。義重は、10歳頃には父に代わって実際の政務を行っていたことを裏付ける手紙も残されていることから、幼くして名将の片鱗を見せていたことがよくわかる。伊達政宗も同じく、若い頃から学問に秀でたことがよくわかっている。
義重も政宗も10代で家督を継ぎ、その後数年で近隣諸国を制圧している。しかし、そこから義重は、停滞してしまう。そして、天正13年(1585年)に人取橋の戦いで伊達政宗と対峙し、圧倒的優位に立ちながら結果、破れ数年で隠居をしてしまうのである。
管理人は、義重の才能は政宗のそれよりも上であったと思う。若干10歳で父に代わって政務を行うということは尋常の才能ではできない。しかし、だからこそ義重は、才能だけで勝負をしてしまったのではないか。父もこの息子なら大丈夫だと思っていただろうし、家臣もこの人についていけば安心と思っていただろう。結果、義重は言い方を悪くすれば若い頃から絶対的な指導者だったのではないか。
伊達政宗はどうかというと才能は、義重には及ばなかっただろう。しかし、父親からありあまる学問的援助を受け、優秀な部下をつけてもらう幸運があった。才能に磨きをかけることができただろう。そして母親に殺されかけ、弟と父親を自らの手で殺してしまったのだから精神的な苦労が大きかった。
いうなれば天才と苦労人の天才である。江戸時代に入ってから伊達政宗が三代将軍、徳川家光に生涯の大戦ということで語っていることから伊達政宗にとってこの戦いが余程大きく、心に残っていたのだろう。この戦いを境に佐竹義重は、隠居に向かい伊達政宗は、大きく成長するのである。
管理人は、義重と政宗は根本的には同じであったが苦労と人材(家臣)の差でその後の人生に差が生まれたと思う。戦国時代に後世に名を残す人と残さない人の差は、場所もとても大きい。佐竹氏は、京都が中心だった頃、常陸という目立たない場所にあり、江戸時代には秋田が領地であったため、あまり知られていない。しかし、佐竹義重という武将が稀代の名将であったことは事実である。
|