島津義久
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略歴
天文2年(1533年)2月9日、第15代当主・島津貴久の長男として伊作城で生まれる。父・貴久に従い薩摩、大隅の国人衆と戦い、勝利する。永禄9年(1566年)、
父の隠居により家督を相続し、島津家第16代当主となる。元亀3年(1572年)5月、日向国伊東義祐との木崎原の戦いに勝利し、薩摩・大隈・日向を加えて3州を統一する。
天正6年(1578年)10月、豊後国の大友宗麟が大群を率いて侵攻してきた耳川の戦いに勝利を収める。天正12年(1584年)、龍造寺氏が島津氏の軍門に降り、
以後九州各地の領主が島津氏に降り九州で残す敵は、大友宗麟だけとなる。
直後、豊臣秀吉から九州での戦いを禁じる命令が下ったが義久は、これを無視し侵略を続ける。秀吉による九州征伐の前哨戦である戸次川の戦いで勝利を収めるが天正15年
(1587年)、豊臣軍の先鋒・豊臣秀長率いる毛利・小早川・宇喜多軍など総勢15万余人が豊前国に到着。この大軍勢をみた島津側の諸侯は、次々と秀吉軍に降った。
結果、敗退した島津軍は、豊臣秀吉から薩摩・大隈の2国のみ安堵される。この後、弟の義弘が主に豊臣側との折衝に当たっていたため義弘が事実上の当主とみなされるようになる。
朝鮮出兵では、義弘が軍を率いて渡朝、関ヶ原の戦いでは西軍として義弘が軍を率いている。
関が原の戦後、徳川幕府との折衝の末本領を安堵され、義久は隠居をし島津忠恒を正式に当主としたが実権は義久が保持していた。その為義久・義弘・忠恒の3党が島津氏に
君臨してしまい混乱がおきてしまった。慶長16年(1611年)1月21日、国分城にて病死した。享年79。
島津義久とは
鹿児島の島津氏の先祖は、源頼朝の長庶子ともいわれる忠久としており、その後一貫して薩摩を領する名門中の名門である。義久は、15代当主・貴久の嫡男として生まれたがおとなしい性格であった。
それに対して弟である義弘・歳久・家久がずれも知勇兼備の名将であったので「愚兄賢弟の生きた見本」と罵られていたようである。
しかし祖父である島津忠良(島津家中興の祖と謳われている)は、彼を「3州の総大将たるの材徳自ら備わっている」と高く評しており、義久もその祖父から大きな影響を受けていた。
祖父の言葉どおり義久は、優秀な弟達を巧みに使い九州統一へと乗り出す。
島津4兄弟は、各々の役割が明確に決まっていた。次弟義弘は、常に最前線で軍神のように戦い、3弟歳久は、義久の傍らで戦略を立てる軍師であり、4弟家久は、義弘と別働隊で修羅のように戦う、
そして義久は全てに指示を出す。豊臣秀吉が侵攻してくるまでは、この役割が完璧に機能していて九州制覇まで後一歩まで迫ったのである。
しかし弟の家久が病死、歳久を失ってから弟の義弘と兄弟仲が悪くなっていく。これは、九州征伐の後義久には、薩摩1国が与えられ義弘に大隈1国、娘婿久保(義弘の実子)に日向諸縣郡が与えられたことが根底にあり、
その中で歳久が死去し義久と義弘親子の力関係が同等になってしまったこと。そして豊臣秀吉政権との折衝は、本国にいる義久ではなく京・大坂に居る義弘が受け持ったことが大きいと思う『 両殿体制』。
関が原の後の交渉で義久は、西軍に加担したのは、義弘の独断であり国主の義久は知らないとしてついに徳川幕府に本領安堵を約束させる。本領安堵後、義久は隠居し忠恒(娘婿であり義弘の実子)
に家督を譲ったがその後も義久・義弘の確執は続き忠恒をあわせた3人が各々独自の軍団を編成し家中は混乱してしまったのが実情である。
総評
島津義弘を始とする島津4兄弟は、戦国史でもひときわ輝いている。この4兄弟をもってすれば九州統一まで、後一歩だったのは当然であろう。そしてこの4兄弟で最も有名なのは、
義弘である。これは、次弟である義弘が常に島津軍団の先頭に立ち戦い続けたからに他ならない。
しかし管理人は、長兄である義久が存在しなければ義弘の戦功も以後の島津家も存在していないと思う。冒頭で紹介したか彼の祖父が言ったと言う言葉を彼を端的に表している。
義久は生まれながらの大将であると。]
管理人は、優秀な大将は、カリスマ性があること。優秀な部下がいること。大局をみて采配をふるえること。このことができる人だと思っている。
九州の名門である島津家の嫡男である義久は、生まれながらにしてカリスマ性をもっていた。そして彼には、一番身近な兄弟(部下)が揃いも揃って皆優秀という運も持ち合わせていた。
そのおかげで若い頃から兄弟を自在に動かし、常に島津家全体を考えて采配をふるえたのである。
彼の実力が一番わかるのが関が原の戦いの戦後交渉である。西軍に与したのは、義弘の独断で島津家は、全く知らなかったと強行に言い放ち最後には、徳川が攻め寄せてくるなら迎え撃つとして軍備を増強している。
江戸から鹿児島までの距離は、あまりにも遠い。島津を撃つつもりなら膨大な兵、それに付随する膨大な食料が必要であり、必ず諸侯の力を借りる必要がある。
戦後間もない時に強制的にそれをしたら諸侯の間に暴動が起こりまた戦国の世に逆戻りとなる。義久は家康の腹の中を全て見透かした上で交渉していたのである。事実家康は、島津は、
お咎め一切なしとしている。これは、ちょっと考えられないことである。
徳川家康は、島津義久の采配を古の名将『楠正成』に勝るとも劣らずと評しており、所領安堵後に家康との謁見の中で義久は、「弟達・家臣たちが戦って勝利を収めてきただけで自分の手柄は一切ない」といい放ち、
家康はその後「自らが動かずして、勝つことこそ大将の鑑よ」と言ったという。
その後、徳川家からの手紙の宛先は、家督を継いだ忠恒ではなく、一貫して義久であったという。英雄英雄を知るではないが家康が義久の実力を100%理解していたために島津家存続が成ったのである。
250年後の島津家が徳川家を倒す大きな原動力に成って明治維新を成し遂げたのも義久がいなければなかったのである(歴史にタラ・レバはありえないし極論であるが・・・)。
管理人おすすめの本
島津義久 九州全土を席巻した智将 桐野作人(著)
薩摩・大隅・日向の三州統一を果たした島津義久を描いた小説。島津一門や譜代、国衆の間にも火種を抱えながら、家中の結束に力を注いだ義久の苦悩に満ちた闘いの日々・
徳川家康との息を飲む駆け引き等読み応えがある小説である。
島津義弘ばかり注目される中、義久の実力をぜひ知ってもらいたい。
島津義久 九州全土を席巻した智将 (PHP文庫)
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