武田晴信
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略歴
大永元年11月3日(1521年12月1日)、甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家第18代当主で甲斐守護である武田信虎の嫡男として生まれる。父、信虎の時代に一族・周辺国人を制圧し、甲斐統一と共に甲府の躑躅ヶ崎館を本拠とした戦国大名の地位が確立された。
天文5年(1536年)に元服し、室町幕府第12代将軍・足利義晴から「晴」の偏諱を賜り、「晴信」と改める。と同時に従五位下・大膳大夫に叙位・任官される。天文5年(1536年)11月、佐久郡海ノ口城主平賀源心攻めで初陣を飾る。
天文10年(1541年)6月に晴信や重臣の板垣信方や甘利虎泰、飯富虎昌らによる信虎の駿河追放が行われ、晴信は武田家第19代家督を相続する。父・信虎を追放した直後、信濃国諏訪上原城主・諏訪頼重、信濃国守護職の小笠原長時が甲斐国に侵攻してくるが、晴信はこれを撃退、その後に諏訪に侵攻、諏訪頼重を滅ぼし諏訪地方を平定した。
天文12年(1543年)、信濃国長窪城主・大井貞隆を天文14年(1545年)4月には、上伊奈の高遠城に侵攻し、高遠頼継を、続いて6月には福与城主・藤沢頼親も滅ぼした。天文19年(1550年)9月、信州一の猛将村上義清の支城である砥石城を攻めるが大敗を喫する。しかし真田幸隆(真田昌幸の父)の策略で砥石城が落城すると、優勢に転じ天文22年(1553年)4月、村上義清が越後の長尾景虎(後の上杉謙信)の下に逃れ約10年を要して信濃を平定した。
天文22年(1553年)4月、村上義清や北信豪族の要請を受けた長尾景虎は、本格的な信濃出兵を開始し以後5度にわたり越後・信濃の中間にあたる川中島で雌雄を決することになる。天文23年(1554年)には嫡男義信の正室に今川義元の娘を迎え、甲駿同盟を強化・また娘を北条氏康の嫡男氏政に嫁がせ甲相同盟を結ぶ。今川と北条も信玄が仲介して婚姻を結び甲相駿三国同盟が成立する。
永禄4年(1561年)の第四次川中島の戦いは一連の対決の中で最大規模の合戦となり武田側にとって大きな痛手となった。この後信玄は、矛先を上野に向け永禄9年(1566年)9月に、長野業盛が守る箕輪城を落とし、上野西部を制圧することに成功した。永禄3年(1560年)5月に今川義元が織田信長により桶狭間の戦いにて討たれると今川氏との同盟を破棄し、駿河に矛先を向ける。
永禄11年(1568年)12月、河進攻を開始するが北条氏康が大群を持って今川軍の救援に回り、三河の徳川家康も北条氏康と同盟を結び信玄と敵対したため、一旦甲斐に戻らざるえなかった。永禄12年(1569年)9月、信玄は北条を叩くべく上野・武蔵・相模に侵攻する。小田原まで迫って小田原城を包囲するが北条方は各方面から武田軍に迎撃を始めたため撤退する。
元亀元年(1570年)7月、北条方の諸事情により手薄となった駿河に侵攻、北条の守備隊を撃破し完全に平定するに至る。翌年には、北条氏康が死去し嫡男氏政は、再び信玄と同盟を結んだ。この時点で武田家の領土は、甲斐一国のほか、信濃、駿河、上野西部、遠江・三河・飛騨・越中の一部にまで及び、石高はおよそ120万石に達している。
元亀3年(1572年)10月3日、将軍・足利義昭の信長討伐令の呼びかけに応じて、上洛するために甲府を発した。信玄率いる本隊は10月13日、只来城、天方城、一宮城、飯田城、各和城、向笠城などの徳川諸城を1日で落とし、家康は10月14日、武田軍と遠江一言坂において戦ったが、惨敗した(一言坂の戦い)。12月22日に兵1万1,000を率いて遠江三方ヶ原にて信玄と一大決戦を挑むが兵力・戦術の差に大敗を喫し、家康は単身浜松に逃げ帰った(三方ヶ原の戦い)。
その後三河の諸城を落としていくが突如行軍を停止する。原因は、信玄が喀血し療養のためであったが病状が全く回復せず、まもなく甲斐に撤退し始める。しかし元亀4年(1573年)月12日、軍を甲斐に引き返す三河街道上で死去する、享年53。
武田晴信(信玄)とは
武田晴信は、源新羅三郎義光を始祖とする甲斐源氏の宗家の嫡男であり、武家の名門中の名門である。父信虎は、嫡男の晴信より次兄の武田信繁を非常に愛し、家督を信繁に継がせようとしたとされている。
12歳で政略結婚しているが翌年、出産の折難産で母子共に失っている。15歳で元服し時の将軍の一字を貰うと同時に従五位下・大膳大夫に叙位・任官され、継室三条夫人を迎えている。直後に初陣を飾っており見事に勝利している。しかし、親子仲は相変わらず悪かったようである。
晴信20歳の折、晴信と重臣によって父信虎を駿河に追放しており、直後に晴信は甲斐武田家19代を継いだことになる。原因は、親子不和説、信虎悪行説、今川義元との共謀説等諸説あるがこの父を追放したことによってであるのか晴信が死去するまでの人生全て戦いの連続になるのである。
晴信は、当初の目標を信濃平定においた。関東・駿河には、北条・今川の両大大名がいたため当然である。父追放直後晴信は、諏訪頼重・高遠頼継の間で起こった宗家継承問題に目をつけその紛争を巧みに利用し、両氏を破り諏訪地方を平定し信濃平定の足がかりを築いた。
これによって順調に信濃の諸地域を平定していくが天文16年(1547年)、志賀城の笠原清繁を攻めた折に武田軍がとった行動が信濃平定を大きく遅らせる要因になってしまう。この戦で大勝した折に場内にいる敵方に対する脅しとして約3000の敵方の首級を城の周りに並べ
城を落とした後に残った女子供と奉公の男は人質・奴隷にするなど過酷な処分を下したため以後信濃の諸領主は、晴信に反感を示しことごとく対立するのである。
信濃一の猛将である村上義清との戦いでは、兵力で優勢にありながら武田軍は大敗を喫した上に宿老の板垣信方・甘利虎泰らをはじめ多くの将兵を失ってしまう。しかし晴信は、北に進攻し続け村上義清以外の諸将を破り制圧した。その後、晴信は全勢力を村上義清に向けるが圧倒的な兵数の差にも関わらず大敗をしてしまう。後に真田幸隆の謀略で村上軍に勝利するが義清自身は、越後に逃れ信濃平定と引き換えに最大の敵を作ってしまうのである。
天文22年(1553年)4月から永禄7年(1564年)までの間に5度も上杉謙信と川中島で衝突を繰り広げ特に第四次川中島の戦いでは、謙信が信玄の本陣まで迫り信玄は、負傷し実弟である武田軍副将武田信繁をはじめ武田家重臣諸角虎定、武田軍軍師山本勘助、三枝守直ら有力家臣を失う大打撃を受けてしまった。特に弟信繁は、信玄の最大の理解者であり武田軍の支柱であったため(豊臣秀吉の弟秀長の位置に似ている)損害ははかり知れなかった。 川中島の戦いの後、越後進攻を取りやめ矛先を上野に向けたが上野一の猛将長野業正が善戦し撤退。ほどなく業正が死去したため後を継いだ業盛を攻め箕輪城を落とし上野西部を制圧した。時を同じくして今川義元が桶狭間で死去すると今川氏との同盟を破棄し今川領に攻め込み、今川氏に援軍を出していた北条氏康の病状悪化に伴い手薄になった駿河領を制圧し駿河を平定した。信玄は、海を持つ両国を得るのが一つの悲願だったと言われ上杉と戦わずに温暖な駿河を平定したのは、当然だろう。
駿河平定後、返す刀で徳川家康が守る諸城をあっという間に落とし、甲斐に帰還した(これは、織田信長に対する牽制だったとされ牽制のため瞬く間に城を落とされた家康はさぞ肝を潰しただろう)。後に北条氏康が死去、嫡男氏政では信玄には勝てないと確信していた氏康の遺言で武田・北条は再び同盟を結び東に憂いが無くなった信玄は、将軍義昭発案の信長包囲網に参加するのである。
その一方で信長の嫡男である織田信忠と信玄の娘である松姫の婚約が成立しており信長・信玄の間では同盟が結ばれたがそれはおそろしく薄い同盟であった。元亀3年(1572年)10月3日、信玄は3万とも言われる大軍を引き連れ上洛の徒に着き三河に進攻。瞬く間に徳川家康が守る諸城を落とし、家康得意の野戦で家康を完膚なきまでにして当の家康は単身命からがら戦線から逃げ出したとされる。そしてこの時家康は、恐怖のあまり馬上で脱糞したと伝えられている。浜松城に帰った家康はこの時の表情を絵師に描かせており生涯戒めとして自らの手で所持していたとされる(徳川家康三方ヶ原戦役画像 所在地-徳川美術館(名古屋市東区)
誰もが信玄が上洛するだろうと考えたが突然信玄は行軍を停止し、甲斐に引き返し始めた。理由は、信玄の死去によるものだが信玄は遺言で3年自分の死を伏せよと命じたと言う。しかしこの報せは瞬く間に広がってしまい武田家は、滅びの道を歩み始めるのである。
総評
武田信玄は、間違いなく上杉謙信と1、2を争う戦国(当時の)最強の大名である。武田信玄をこう評するのにはいくつかの根拠がある。一つは、武力である。
家督相続から約30年間、休む暇なく戦い続け信玄と同じく最強と謳われる上杉謙信と5度も正面衝突し引き分ける。信玄亡き後、信玄の遺言で武田勝頼と上杉謙信が同盟を結んだ時、謙信が「われらがもっと早くこうしていれば信長などは草葉の陰(墓の下)にいたものを」と言ったと伝わるがその通りだったと思われる。
信玄の領国甲斐は、当時とても貧しかった。当時の主食であり経済の源である米も思うように取れず山林に覆われている。広大な濃尾平野を持つ尾張の織田信長、温暖で海、山の資源豊富な今川義元、同じく関東平野を持つ北条氏康、海を持つ上杉謙信とは、生まれた時から富の差があったという事実がある。しかし、甲斐の国は当時馬の一大生産地であったため馬での戦闘術が発達し、孫子の兵法にある風林火山の旗をかかげ鉄砲が伝わる前の当時、神速を誇る精悍な騎馬隊を持つ武田は、群を抜く強さであったのは想像に難くない。徳川家康が武田家が滅びた後率先して武田家の遺臣を取り立て家臣団に組み込んだのは、このためである。井伊直政の「井伊の赤備え」は、あまりにも有名である。
信玄は、「人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇は敵なり」を信条としていたとされる。これを裏付けるように信玄は生涯、甲斐国内に新たな城普請はせず、堀一重の躑躅ヶ崎館を居城とし続けた。このことからもわかるように2つ目は、人材育成の上手さである。俗に武田24将を我が手のように扱ったのは有名である。24将には、弟である信繁を始め板垣信方 のように武田家累代の猛将や信玄に下った信玄に勝る知将と謳われた真田幸隆、農民から信玄に取り立てられ英才を受けた高坂昌信など全てが大大名になれるだろう武将たちで実に幅広い。人材に重きを置いた信玄の魅力の一つであろう。
3つ目は、当時最も情報を重視した点である。信玄の領国には、一定の距離で狼煙台が配備されており、狼煙のリレーで領国の端から端までさえ短時間で伝達されたとされる。そして武田信玄が忍びを多く抱えており、当時下賎のものとして蔑まれていた彼らを家臣と同じく礼をもって扱ったことは、あまりに有名である。言ってみれば、日本の大名の中で武田家は当時数少ない車を持っていて情報を早く伝達でき、且つ信玄がどこに居ようともインターネットのように不特定多数の地域から膨大な情報を得ることができたわけだ。このことからも武田家の強さがわかる。
4つ目は、領国経営の見事さである。信玄は、分国法である「甲州法度次第」(甲州法度)を領国に制定した。これは、軍略や家臣団の統制、治安の規定などが中心に定められている法律である。当時、日本は領主領主で独自にきまぐれに事件を裁いたりきまりを作っていたのに対し、信玄は、自分の領地では全てを統一し統制した。他に先駆けて法治国家を築いたのである。そのため武家は同じ訓練を受けるので統制が取れており戦に強く、事件は、法律で裁くため決裁後の争いが少なく、農民・商人にも配慮されているので領国は、富み強くなっていく。
上記からも武田信玄がいかに優れた領主だったかとわかるだろう。島津義久の項で管理人が考える優秀な大将の条件を書いたが信玄は、それ以上と言える。しかし信玄死後、武田家は、滅びでしまう。次代の勝頼は、世間で言うように暗愚ではない武将である。中盤以降の信玄の戦にことごとく参加しており武田24将に数えられ、信玄の子に生まれていなかったならば、誰もが名君と謳うであろう。
ただ信玄が死ぬまで権力を一手に持ち続けたため死んでから信玄と勝頼の器の差が出てしまったのであろう。信玄が権力を勝頼に委譲するまもなく、死去するまでの期間が早すぎたためにおきた悲劇である。武家は、家を保ち続ける事が一番大切であった。武田家が滅びたのは、勝頼の力の足りなさももちろんあるが信玄が死ぬ前に権力を少しずつ委譲していれば武田家もまた違った道をたどったのではないだろうかと管理人は思うのである。
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