細川藤孝
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略歴
足利将軍家の連枝である奉公衆三淵晴員の次男として、天文3年(1534年)4月22日、京都東山に生まれる。天文9年(1540年)、7歳で伯父である和泉半国守護細川元常(三淵晴員の兄)の養子となったとされる。
天文15年(1546年)、将軍(後の足利義輝)から「藤」字の偏諱を受け、藤孝を名乗る。天文21年(1552年)、従五位下兵部大輔に叙任され、天文23年(1554年)、養父元常の死去により家督を相続した。幕臣として将軍義輝に仕えるが永禄8年(1565年)の永禄の変で義輝が暗殺されると幽閉された義輝の弟である一乗院覚慶(後の足利義昭)を救出し、義昭を将軍にするために奔走した。
明智光秀を通じて織田信長との誼を得た藤孝は、永禄11年(1568年)9月、義昭を奉じて織田信長が入京するのに従い、以後大和(筒井城の戦い)や摂津を転戦した。義昭と信長の対立が表面化すると藤孝は、信長側につき山城国長岡一帯(現長岡京市、向日市付近)を与えられ、以後、長岡姓を称する。
以後信長の武将として畿内各地を転戦し、山陰方面軍総大将の明智光秀の与力として活躍した。天正6年(1578年)、信長のすすめによって嫡男忠興と光秀の娘・玉(細川ガラシャ)の婚儀がなる。細川家単独にて丹後に進攻するも一色家に敗れ、後、光秀の加勢によってようやく半国を平定し、信長から丹後半国の領有を認められ宮津城を居城とした。
天正10年(1582年)に本能寺の変が起こると、光秀の再三の要請を断り、剃髪し幽斎玄旨と号して田辺城に隠居し、忠興に家督を譲った。その後、光秀を討った羽柴秀吉(豊臣秀吉)に重用されると同時に、秀吉側近の文化人として寵遇された。徳川家康とも親交があり秀吉が死去すると家康に接近した。
息子の忠興は関ヶ原の戦いにおいて前線で石田三成の軍と戦い、戦後豊前小倉藩39万9000石の大封を得たが、幽斎は京都吉田で悠々自適な晩年を送ったといわれている。慶長15年(1610年)8月20日、京都三条車屋町の自邸で死去。享年77。
細川藤孝とは
細川藤孝は、室町幕府と非常につながりが深い。生まれは、足利将軍家の連枝(一門・一族)である三淵氏であり叔父である和泉守護細川元常の養子であったことでもそれは、うかがえる。足利義輝に仕え、義輝死後に義昭を将軍位に就けることに非常な働きを示したことは、当然のことであった。
義輝が暗殺された時に兄と共に幽閉されていた義昭を救出し、諸大名に協力を頼みながら行き着いたのが朝倉家であった。そこで朝倉家の臣であった明智光秀と運命的な出会いをし、光秀の斡旋により織田信長が義昭を奉じて上洛をした。しかし、しばらくすると義昭と信長が対立してしまい藤孝は、義昭を裏切り信長の家臣となる。おそらく前後して信長の家臣となった明智光秀から現在の情勢の変化を聞き及んでおり、主家転身を行ったのだろうと思う。
それからは、畿内を中心に転戦を続ける。常に戦で功績を残しているが藤孝は、信長にはそれほど重用されていなかったのではないか?確かに信長は、藤孝の嫡男である忠興と光秀の娘である玉(後ガラシャ)の婚姻を斡旋したりしている。しかし藤孝は、光秀が統帥権をもつ一人の与力武将であり、藤孝が丹後攻めに失敗したのを光秀が後に加勢して汚名を注いでいる。合理主義者の信長は、光秀と藤孝を同じ型として捉え、武将としても政務官としても藤孝は光秀には遥かに及ばないと考えていたのだろう。
そんな折に信長が光秀に本能寺の変にて殺害されてしまう。当然光秀から部下である藤孝に誘いの使者が来るがこれを拒否し、家督を嫡男忠興に譲り名前を幽斎とし、同時に忠興に嫁いでいた光秀の娘である玉を幽閉する。こういうところは、時勢を見る冷静な判断力があったのだろう。忠興と一緒に羽柴秀吉に仕えた彼は、豊臣秀吉に非常に重用され隠居はしていたが武将として紀州征伐・九州征伐等に従軍している。
豊臣秀吉政権では、文化人として茶人である千利休と共に重く用いられた。特に彼で特筆すべき事は彼が藤原定家の歌道を受け継ぐ二条流の歌道伝承者三条西実枝から「古今伝授」(古今和歌集の歌風を伝承化したもの)を受け継いだ唯一の人物であったことにある。これは、後に関ヶ原の戦いの戦いの折の逸話が物語っている。関ヶ原の戦い時、幽斎は僅かな兵で丹後田辺城を守っていたが石田軍が大軍で攻め寄せ長期篭城戦になった。この時に長期篭城戦になった要因が石田側に多くの歌道の弟子がいたことで石田側の戦意が乏しかったことがあげられる。そしてこの時、後陽成天皇(弟の八条宮が幽斎の弟子であった)が勅使を幽斎側に送って勅命によって講和が結ばれた。時の天皇をも動かしてしまうということは、それだけ古今伝授というものに価値があるということであろう。
関ヶ原の戦いで嫡男忠興は、石田軍と前線にて戦い、戦後に豊前小倉藩39万9000石の大封を得たが幽斎は、京都にて悠々自適な生活をして暮らし死去したと言われる。
総評
細川藤孝は、名門の生まれである。その意味からも自身の教養はかなり高かったと思う。しかしすでに足利将軍家は、没落の一途をたどり山城国、守護家の家督を継いだ折には、自身も飾り守護になっていたのではないかと想像できる。これは、足利義昭を救出して後に自身の領国ではなく他大名を頼って転々としていることからもわかる。
おそらくこの時、将軍家がこのまま滅びることを予感したのではないか。しかし自分と同じく高い教養を持ち、頭脳明晰な明智光秀と出会った事で織田信長を知り、彼の目の前が明るくなっただろう。おそらくこの時、足利義昭→細川藤孝→明智光秀→織田信長のラインで交渉が勧められたのであろう。その意味から藤孝と光秀は、かなり親密であったのではないか。
信長が義昭を奉じて上洛をし一応は長年の苦労は報われたが将軍である義昭と信長が対立してしまい、結果的に藤孝は、義昭を裏切り信長の家臣になる。しかし信長の下にはすでに信長自らが誘って家臣にした光秀が居たので朝廷との折衝役はすでにおり、指揮能力も光秀が高い能力を持っていたので合理主義且つ実力主義の信長の目にはそこまで大きく藤孝が映らなかったと考えている。光秀の与力武将の一人であり続けたことからもそれは、想像ができると思う。
しかし本能寺の変後豊臣秀吉には、重宝されている。これは信長と秀吉の権威の捉え方の違いが大きく形になって現れたのではないかと管理人は考えている。信長は一旦は、朝廷に請われて従二位右大臣になったが翌年に辞退してしまい、その後に朝廷から信長に征夷大将軍・太政大臣・関白のうちどれかに任官するように言われたが返事をしないまま先延ばしにし本能寺の変にて死去している。管理人は、信長は権威を何とも思っていなかったのだと推測する。
秀吉はどうかというと権威や権力に異常なほど固執している。秀吉は、関白になるために近衛前久の猶子となり関白宣下を受け新たに天皇より豊臣の姓を賜り太政大臣に任官している。俗話であると言われるが秀吉は、征夷大将軍になりたかったため足利義昭の養子になろうとしたが義昭はこれを拒否した。そのため関白になるための工作に走ったという。ただ秀吉が義昭を始め多くの旧守護家の生き残りを御伽衆にしていたのは確かである。
これらのことからも信長には、出自や将軍の連枝などの権威は通用せず、実力相応の禄をもらっていたのではないか。秀吉は、権威を重視したので足利将軍の連枝、古今伝授の唯一の伝承者という貴人としての価値が働いたのではないか。管理人は、藤孝は武将よりも文化人としての価値を時の権力者に高く認識させた一種のモデルケースではないかと思っている。
嫡男細川忠興は、文武に優れ家康に気に入られ豊前小倉藩39万9000石、後に加藤家取り潰し後の肥後熊本に封ぜられ54万石の大領を得る。細川藤孝が自分の長所を最大限に活かし、激動の戦国時代を切り抜けてきたからこそ細川家が明治を通じて熊本に君臨できたのである。この人も波乱に満ちた生涯を送ったが最後は楽隠居として余生を過ごした幸福な人生であったと思う。
余談だが嫡男の細川忠興は、宮本武蔵との交友が深く、武蔵の庇護者として有名である。第79代内閣総理大臣である細川護煕は、肥後細川家の嫡流にあたる。
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