松平忠輝
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略歴
天正20年(1592年)1月4日、徳川家康の六男として江戸城で誕生。その後、下野栃木(長沼)城主、皆川広照の手で養育される。
慶長4年(1599年)1月、長沢松平氏の家督を相続し、武蔵深谷藩1万石。慶長7年(1602年)に元服して上総介忠輝となり、下総佐倉藩5万石に加増移封。まもなく、信濃川中島藩12万石に加増移封。
慶長11年(1606年)、伊達政宗の長女・五郎八姫と結婚。慶長15年(1610年)、越後高田藩主(福島城主・後述)に任じられ、このとき川中島12万石と併合して合計75万石の大名となる。
元和2年(1616年)7月6日、改易となり伊勢朝熊に流罪。元和4年(1618年)には飛騨国高山藩に、寛永3年(1626年)には信濃国諏訪藩に流された。天和3年(1683年)7月3日、幽閉先である諏訪高島城(南の丸)にて没、享年92歳。
松平忠輝とは
徳川家康の息子でありながら、徳川の名乗りを許されず、伊達政宗の娘婿でありながら、改易され幽閉先で死去したという悲劇の人である。 忠輝の悲劇は、生母である茶阿局の身分が低く、家康によく思われていなかったことから始まる。(茶阿局は、絶世の美女と言われており、家康が非常に寵愛したのだが・・・) 生後間もない忠輝を家康が良く思っていなかったことは、養育を任されたのが徳川譜代の大名でもない下野の小大名であること、他の家康の息子より、昇進があきらかに遅いことでもよくわかる。 ただ元服後は、伊達政宗の娘婿になったり、72万石の大領を賜っていることから家康の息子としての格式を保っている。このことから家康が元服後、忠輝の資質を認めたことが良くわかる。 実際忠輝は、有能な人物だったようである。記録には忠輝は、海外との交易に興味を示し語学に堪能で、茶道、華道、薬学、絵画に非常な才能をもっていたとされる。これだけでは、ただの文化人と思われるが彼は、武術を非常に好み豪快で戦国大名のような気概をもっており、そのうえキリスト教を信仰していたと言われる。 たが大坂冬の陣・夏の陣の後、一転して再び悲劇に見舞われる。大坂夏の陣の不手際から将軍である兄の秀忠によって改易させられたのである。この不手際は、陣中で将軍の直臣である旗本を切り捨てたためとも、命令違反があったとも言われるが72万石の家康の息子に対してきわめて異例である。 一説には、さして傑出した才能の無い秀忠が忠輝の類まれな才能を恐れたためとも言われる(家康の息子である忠輝は、将軍になる資格を持っており、外様大名からの人気も高かった為、擁立される恐れもあった)が以後67年間も許されること無く、幽閉されたのである。
総評
忠輝は、非常に魅力的な人物である。戦国生き残りの雄で舅の伊達政宗は、彼を非常にかわいがっていることからも有能で魅力があったのだろう。 家康との関係は、常に悪かったといわれるが成人してからは、むしろ良かったのではないだろうか?家康は、成人してからの忠輝を厚遇しており、自分の名代として忠輝に対して豊臣秀頼との面会を命令しているので確実に実力を認めていたと思われる。 家康は、「野風の笛」を忠輝に与えたとされる。これは、織田信長〜豊臣秀吉〜徳川家康が所持していたことから天下人の象徴と言われており、それからも親子関係は、良好だったと思う。 類まれな才能を持っていた彼が家康の息子でなかったら、戦国時代に生きていたらどうなっていたのだろう。生まれたときから悲劇の宿命に翻弄された人物である。
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