鍋島 直茂
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略歴
天文7年(1538年)、肥前佐嘉郡本庄村の在地豪族である鍋島清房の次男として生まれる。天文10年(1541年)、主君・龍造寺家兼(当初は、肥前・筑前の守護である少弐氏の被官)の命令により、小城郡の千葉胤連(九州千葉氏)の養子となる(ほどなく解消)。
龍造寺家兼の死後、龍造寺隆信が後を継ぐと隆信の生母である慶ァ尼が父の継室となったため、直茂は隆信の従弟であると同時に義弟にもなり、隆信から厚い信任を受けることとなる。龍造寺氏は、宿敵の少弐氏を永禄2年(1559年)には滅亡に追いやる。
天正3年(1575年)、少弐氏の残党を全て滅ぼし、天正6年(1578年)には肥前南部の有馬氏・大村氏らを屈服させる。そして隆信が隠居して龍造寺政家が家督を継ぐと、政家の後見人となる。天正9年(1581年)に龍造寺隆信と謀り、筑後国柳川城主の蒲池鎮漣を謀殺すると蒲池一族を滅ぼすと柳川城に入る。以後、主に筑後の国の国政を担当する。
天正12年(1584年)、沖田畷の戦いで隆信が島津氏に敗れて戦死すると隆信の嫡男・龍造寺政家を要して島津氏に敵対。後に島津氏に恭順した。しかし豊臣秀吉に早くから誼を通じて、島津氏に恭順しつつも裏では九州征伐を促した。これを豊臣秀吉は、大きく評価し龍造寺政家に代わって国政を担うよう命じた。これにより龍造寺家の実権を完全に掌握した。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、息子の勝茂が当初西軍に属して積極的に参戦したが、直茂は東軍勝利を予測しており、勝茂を攻撃から離脱させると自らは、九州にて東軍勝利に貢献し戦後、肥前国佐嘉の35万7000石を家康より安堵されている。
まもなく佐賀藩が立藩したが直茂は、主筋である龍造寺氏への遠慮のため自らは藩主の座に着かず、嫡男勝茂を藩主に着けたため藩祖ということになっている。元和4年(1618年)6月3日に病死。享年81。
鍋島 直茂とは
鍋島直茂は、知勇兼備の名将である。戦国時代に一芸に秀でた武将は多いが彼のようにバランスよく秀でた武将は、数えるくらいだろう。
彼は、肥前佐嘉の在地豪族の次男に生まれている。一度は、次男のため他家に養子に出されたが政治上の理由から実家に戻されてる。本来は、次男のため長男を差し置くことは少ないのだが主君である龍造寺家兼が死去し、隆信が後を継いでから直茂の身に変化が起こっていく。
隆信の生母である慶ァ尼が父清房の継室となったことにより、主君である隆信と従兄弟であり義弟の絆がうまれたのである。その上で隆信は、直茂の才を非常に買っており、永禄2年(1559年)に直茂の活躍により宿敵であった少弐氏を滅ぼす事に成功し
隆信は、直茂への信任をますます厚くしていった。
永禄12年(1569年)、豊後・筑前・筑後を要する大友宗麟が肥前に侵攻して来ると、隆信に籠城を進言すると同時に安芸毛利氏に大友領への侵攻を要請した。元亀元年(1570年)の今山の戦いでは、家中が籠城に傾く中夜襲を進言し、夜襲隊を指揮して大友氏を撃破する。
天正3年(1575年)、少弐氏の残党を全て滅ぼし、天正6年(1578年)には肥前南部の有馬氏・大村氏らを屈服させるという功績を挙げた。そして隆信が隠居して龍造寺政家が家督を継ぐと、政家の後見人を隆信より任された。
天正9年(1581年)に筑後国柳川城主の蒲池鎮漣とその一族を討つと、以後柳川城主となり主に筑後の国の国政を担当する。これは直茂への期待とも取れるが龍造寺隆信が彼を遠ざけたともみてとれる。実際この頃直茂は、龍造寺家臣団を動かせる実力をもっており、隆信が彼を非常に恐れていたことはあ確かだろう。
天正12年(1584年)、沖田畷の戦いで隆信が島津氏に敗れて戦死すると、隆信の嫡男・龍造寺政家を補佐役となり、家臣でありながら全権を任されることになる。直茂は、時勢もたくみに読み取り、豊臣秀吉に早くから誼を通じることで九州征伐を促した。この一連の動きを秀吉は高く評価し、龍造寺氏とは別に所領を安堵し、龍造寺政家に代わって国政を担うよう命じている。
このことにより直茂は、龍造寺家の家老でありながら豊臣秀吉の直臣ともなり、全国の諸侯からは龍造寺政家よりもはるかに重くみられていたようである。朝鮮出兵においては、龍造寺家臣団を率いて戦っており、家臣団においても直茂への傾倒が一層促進した。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、息子の勝茂が当初西軍に属して積極的に参戦したが、直茂は東軍勝利を予測していたため、関ヶ原での本戦が開始される以前に勝茂とその軍勢を戦線から離脱させている。兵糧を徳川家康に提供し、自らは九州の西軍武将の城を攻撃し、攻略していった。
このことを戦後、家康から評価され肥前国佐嘉35万7000石は、辛うじて安堵されている。この後、幕府は直茂・勝茂父子へ龍造寺氏から全ての移譲を認める姿勢をとり、名実共に鍋島親子が大名となり、鍋島藩が成立している。
その後直茂は、龍造寺一門へ敬意を表しながらも、その影響力を相対的に弱め嫡男である勝茂もそれにならった。本来直茂が初代藩主なのだが龍造寺一門の感情を優先し、子の勝茂を初代藩主としている。
総評
鍋島直茂は、間違いなく日本の戦国武将有数の知勇を兼ねそろえた名将である。この人が畿内に近いところに生まれていたらもっと脚光を浴びていただろう。
豊臣秀吉が他家の家臣を直臣とした例は、上杉家家老の直江兼続をはじめ、本当に一握りしかいない。おそらく秀吉がそこの家臣団を崩すために放った布石だろうが秀吉が諸侯よりも彼らの力量を高く評価し、重要視していたことはまぎれもない事実である。
当時の武家の次男がここまでなるには、力量だけでは不可能で彼は強運にも恵まれていたのだろう。自分の父親が主君の母親と再婚することになり、主君の義弟になるという事実は運としか言いようが無い。彼は、その運を自分の実力で最大限増幅させたといえる。
戦国時代下克上は付き物である。直茂も結果、主家を乗っ取っているので下克上といえる。しかし彼の場合、下克上をした者が放つ陰謀めいたものがほとんどない。管理人から見ると直茂は、龍造寺家を乗っ取る意思は無く、龍造寺家繁栄のため行ったことが自然に諸侯が認め、秀吉が認め、最後に家康が認めた。そして彼のしてきたことが龍造寺家臣団にも指示され平和的な権力移譲(龍造寺一門の妨害・確執は当然あったのだが)が成立したのではないか。
江戸時代に鍋島藩が成立してからも直茂は、龍造寺一門に敬意を表に出している。それは、彼が自ら初代藩主にならず嫡男の勝茂を初代藩主にしたことや、一門に対して厚く遇したことにもわかる。しかし同時に息子達に領土を与え支藩として立藩させるなどして鍋島一門の関係強化に努め、龍造寺一門を抑えた。
余談だが「葉隠」という一つの本がある。これは、江戸中期の肥前国鍋島藩藩士であった山本常朝の武士としての心得についての見解を「武士道」としてまとめた本である。。「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」という文言は、この本で書かれたことであり、武士の理想像を鍋島直茂としているとされている。
佐賀藩は、江戸幕府が開府してから明治維新が起こるまで270年間、一貫して領土を守り続けた。これは、直茂の偉大さ家臣団への教育の賜物であろう。それが佐賀藩は、明治維新を推進した4藩(薩摩・長州・土佐・佐賀)の一翼を担ったことに活きているのではないかと管理人は思う。
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