西郷隆盛
|
略歴
文政10年12月7日(1828年1月23日)、薩摩国鹿児島城下で、御勘定方小頭の西郷九郎隆盛の第一子として生まれる。天保12年(1841年)、元服し吉之介隆永と名乗る。弘化元年(1844年)、郡方書役助をつとめ、御小姓与(一番組小与八番)に編入された。
嘉永4年(1851年)2月2日、島津斉興が隠居し、島津斉彬が薩摩藩主になる。安政元年(1854年)、斉彬の江戸参勤に際し、中御小姓・定御供・江戸詰に任ぜられ、江戸に赴いた。安政2年(1855年)、西郷家の家督を継ぎ、善兵衛から吉兵衛へ改める。安政5年(1858年)、7月に7月16日、島津斉彬が急逝。
安政5年(1858年)11月、前途に悲観して入水したが一命をとりとめる。12月、藩当局は、幕府の目から隠すために西郷の職を免じ、奄美大島に潜居される。文久元年(1861年)10月、島津久光から召還状を受け、鹿児島に戻る。
しかし文久2年(1862年)、徳之島に再遠島される。元治元年(1864年)に大久保利通・小松帯刀の勧めもあり、赦免召還される。慶応2年(1866年)、1月22日に薩長同盟が締結される。慶応3年(1867年)、10月14日に大政奉還。
慶応4年(1868年)1月3日、鳥羽・伏見の戦いが始まる(戊辰戦争開始)。4月11日に江戸城・明け渡し(無血開城)が行なわれる。明治2年(1869年)、藩主忠義の要請で、参政・一代寄合となり藩政の改革に着手。
明治4年(1871年)、政治改革のために鹿児島から上京する。西郷は、正三位に叙任され参議となる。明治6年(1873年)9月参議・近衛都督辞職し鹿児島に下野する。明治10年(1877年)、西南戦争が起こり9月24日、西郷は自刃し死去。享年51(満49歳没)。
西郷隆盛とは
西郷隆盛は、維新三傑(明治維新に尽力した西郷隆盛・木戸孝允・大久保利通)の一人である。彼は、鹿児島の下級武士の家に生まれたが当時国内で一級の藩主であった島津斉彬の目にとまり抜擢されたことによってその後の人生ががらりと変わった。
安政元年(1854年)、斉彬の江戸参勤に際し、江戸に赴き御庭方役となり、当代一の開明派大名であった斉彬から直接教えを受けるようになり、斉彬の使者として諸藩の国学者等と交流するにあたり西郷自身も国事について話しあうようになる。
西郷は、島津家から将軍正室となった篤姫との中継役をしていたため、次期将軍継嗣問題(一橋慶喜と紀伊徳川慶福の争いで島津斉彬は、慶喜擁立派)でも深く絡んでいた。斉彬等の奔走むなしく次期将軍は、尾張慶福となったことで井伊直弼による安政の大獄がはじまり、そのさなか島津斉彬は、急逝してしまう。
安政5年(1858年)7月27日、京都で斉彬の訃報を聞き殉死しようとしたが僧・月照の説得により斉彬の意思を継ぐことを決意する。西郷は、大老井伊直弼を排斥しようと運動していたが幕府に知られたことから追われる身になり、同じく斉彬時代から行動を共にしていた月照等と島津藩当局によって日向国に追放となる。そこで将来に悲観した月照と共に入水したが救出され西郷のみは、蘇生し一命をとりとめた。
藩当局は、幕府の目から隠すために西郷の職を免じ、奄美大島に潜居させることにする
。西郷は、大久保利通等から情報を受け取りながら島で流人として生活をし、島妻を娶り、万延元年(1860年)11月2日には菊次郎が誕生した。文久元年(1861年)11月、西郷は島津家からの召還状を受け取り文久2年(1862年)2月に鹿児島に戻った。
旧役に服した西郷だが島津久光の命令無視のかどで再び文久2年(1862年)6月に徳之島に続いて沖永良部島へ遠島される。しかし藩の人材不足によって再び元治元年(1864年)に鹿児島に召還される。
鹿児島に戻った西郷は、真っ先に前藩主島津斉彬の墓参りをし、すぐに軍司令官として京都に赴く。当時薩摩の評判は、すこぶる悪く西郷は、この悪評の緩和を第一に努めた。
慶応元年(1865年)家老に任ぜられた西郷は、内外との折衝に追われ、慶応2年(1866年)2月21日、坂本龍馬立会いの下、長州藩桂小五郎との間に薩長同盟を締結する。
慶応3年(1867年)3月25日、西郷は島津久光を奉じ、薩摩の精鋭700名を率いて上京する。西郷は、この時に倒幕の意思を明確にし、改めて薩長同盟を誓約し、続いて薩土同盟も締結した。慶応3年(1867年)10月14日に大政奉還を上奏させた。
しかし同時に西郷は、王政復古の大号令を発し、慶応4年(1868年)1月3日、旧幕府軍と薩長の守備隊が衝突し鳥羽・伏見の戦いが勃発。まもなく将軍慶喜は、松平容保・老中などの少数の高官を率いて大坂城を脱出して、江戸へ退去した。新政府は、慶喜追討令を出し、東国経略に乗り出した。西郷は2月12日、独断で先鋒軍を率いて2月28日には東海道の要衝箱根を占領した。
3月13日、14日、勝海舟と会談し、江戸城明け渡しについての交渉をし、4月11日に江戸城・明け渡し(無血開城)が行なわれた。戊辰戦争終結後、西郷は鹿児島の改革で一線を退いていたが明治4年(1871年)に新政府に請われ、上京した。明治4年(1871年)11月12日、三条・西郷らに留守内閣(留守政府)をまかせ、特命全権大使岩倉具視らが外交使節団が条約改正のために横浜から欧米各国へ出発した。明治6年(1873年)9月に彼らが帰国するまで西郷が主導した政府を動かした。
明治六年政変で西郷は、鹿児島に退いた。鹿児島では、血気盛んな若者を抑えるため私学校が設立された。この私学校は、西郷の影響下で整備され、まもなく私学校党が県政を牛耳るようになっていった。そんな中明治9年(1876年)3月に廃刀令が出、8月に金禄公債証書条例が出ると帯刀と知行地という士族最後の特権をも奪われたことに士族は憤慨した。
私学校は、士族とその子弟で構成されていたため当然ながら不満を募らせていった。各地で旧士族の反乱が起こり、西郷は日当山温泉でこれら決起の報を聞き、士族らの動きを肯定し、自分もその準備はある意向を示していた。私学校生徒が火薬庫を襲ったことが一つの契機となり西郷を大将とし西南戦争が勃発。熊本・宮崎と戦った後に鹿児島の城山で最後の戦をして自決。享年51。
総評
西郷隆盛は、明治維新に大功があった維新三傑の一人である。管理人は、西郷が明治政府創建の最高の立役者だと考えている。明治維新は、下級武士が中心になって成し遂げた政変なのは、周知の通りである。
西郷も鹿児島の下級武士の家に生まれた。そんな西郷の一生を変えたのが鹿児島藩主島津斉彬である。斉彬は、当時の大名の中でもトップクラスの有能な人物で開明派大名として有名であった。その人物に眼に留まったことが何よりの西郷の幸運であったと思う。
西郷は、この斉彬の下で斉彬の実務を見、直に指導を受けることによって能力が開花され斉彬に心酔していく。折も折に島津家の篤姫が徳川将軍家に正室に入ることが決まった。江戸に下った西郷は、斉彬と篤姫・諸大名の連絡係を勤め、実際に数多くの交渉も行っていたとされている。
彼の後の活躍の土台は、この時に完成されたのだと思う。しかし、斉彬の最大の目的であった将軍家継嗣問題に破れ、斉彬自身が急逝してしまったことにより西郷の流転の人生が始まった。彼は、当然の如く殉死を熱望するが共に行動を共にしてきた月照に諭され、斉彬の意思を継ぐこと決意する。
しかしそれを良しとしない幕府、そしておそらく兄の痕跡を消し去りたい藩主の父久光の意向により月照ともども追放される。この時に月照と西郷は、絶望のあまり入水するが西郷だけ生き残ってしまう。そして約5年の島流しにあうのである。
西郷は、この10年の間に島津斉彬に指導される最高の幸せ、そして罪人として島流しという最大の不幸を味わった。後に西郷が大きい(人間として)と言われるのは、10年の間の精神的な強さと経験があるからだったのだろう。しかしこれで終わらないのが西郷のすごさであろう。島津家の人材不足で2度呼び戻されるのである。
2回目は、島津久光の怒りで再び島流しにあった後に久光自身がまた召還したのである。久光にとって西郷は、兄斉彬を見るようで二度と見たくない存在であったと思う。それを周囲の勧めがあったにせよ呼び戻すのは、西郷の実力が尋常ではなかったのが手に取るようにわかるきがする。
召還された西郷は、京に上り島津家の悪評を拭い去り、当初の目的は、違っていたにせよ新しい政府を作る事に邁進する。この時の西郷を評して坂本龍馬が「小さく叩いたら小さく響き、大きく叩くと大きく響く」と言った事は有名であるがその通りの底がない
のではないかと思うくらいの人物だったのだろうと思う。結果西郷は、島津家の家老として次々と交渉を行う。
西郷の維新の功績は、数知れないと思うが管理人が考える最大の功績は、江戸城無血開城である。勝海舟晩年の語録である「氷川清話」にも書かれているが全ての政府軍が江戸城を攻めると主張している時に勝海舟と西郷隆盛が薩摩屋敷で会ったという。この時の時勢は、政府軍の圧倒的有利であった。その席で勝海舟が江戸城無血開城の提案をしたのだが西郷は、その間終始正座で膝に手をのせ勝に対する礼儀を尽くし、勝の話に一言も反論せずに話が終わると「私が一身にしてお引き受けいたします」と言ったという。
これは、戦勝の勢いにのっている10万を超える軍勢をたった一人で止めると言っていることと同じであり、しかも軍で話し合うのではなく、即決でこの重大な事を約束し、実行してしまう。勝海舟が政府軍で西郷以外は人間が小さいと言っていたと言うが実際そうだったのだろうと思わせる人間の大きさが違いすぎる話である。
明治の世になった後、西郷は一線を退くが政府軍に呼び戻されて元帥となる。その後、再び鹿児島に帰り穏やかな生活を送ろうとするが西南戦争が起こり、西郷は再び必要とされる。それもおそらく負けるとわかっている戦にである。西郷は、大将として反乱軍を率い最後は、自刃をしてしまう。
西郷は政府の態度に呆れて鹿児島に帰ったとされるので最後は、政府に現状をわからせるために立ち上がったとも見て取れる。管理人は、自己紹介にもあるようにもともと新撰組が大好きで歴史が好きになった一人である。そのため幕府側に好感をもっているが西郷隆盛は少し違う。彼がもし入水し、蘇生しなかったらどうだったのだろう。おそらく必然的に蘇生した・死んではいけなかった人物だったのだろう。彼の人間的な大きさは、まさしく別格であると思わせる人物である。
|