黒田孝高
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略歴
天文15年11月29日(1546年12月22日)、黒田職隆の嫡男として姫路に生まれる。黒田職隆は、御着城(現在の姫路市東部)を中心に播州平野に勢力を持っていた西播最大の大名小寺政職から姫路城を預かり、家老として仕えており、小寺の名字を名乗らせる等重く用いられていた。
永禄5年(1562年)、孝高は小寺政職の近習となり、父と共に土豪を征伐し、初陣を飾る。永禄10年(1567年)頃には、父職隆から家督と家老職を継ぎ、姫路城代となる。。天正3年(1575年)、主君小寺政職に織田信長との臣従を進め成功させる。天正4年(1576年)には、織田信長に嫡男である松寿丸(後の黒田長政)を人質として送り、居城であった姫路城を豊臣秀吉に渡している。
天正6年(1578年)、織田家の重臣で摂津国を任されていた荒木村重が信長に対して謀反を起こし、孝高は村重を翻意させるため村重の下に赴くが捕らえられ、これより1年土牢に押し込めらる。
天正8年(1580年)、主君の小寺政職も荒木村重に呼応し、織田信長に討伐されたため以後、羽柴秀吉の与力として播磨国に1万石を得て以後秀吉の参謀となる。天正9年(1581年)、秀吉は因幡の鳥取城の攻略、天正10年(1582年)、毛利氏の部将・清水宗治が守る備中高松城攻略で大きく貢献。
さらに本能寺の変で織田信長が死去すると、秀吉に毛利輝元と早急に和睦し明智光秀を討つよう進言し、中国大返しを実現させた。明智光秀との山崎の戦い、柴田勝家との賤ヶ岳の戦いでも重要な役割を担っている。徳川家康との小牧・長久手の戦いや天正13年(1585年)の長曾我部元親が領する四国攻め等、秀吉の天下取り事業に全て大きく貢献している。
天正15年(1587年)の九州平定後に秀吉から、本拠地の中津をはじめとする12万5000石(太閤検地後17万石)を与えられた。天正17年(1589年)、家督を嫡男・長政に譲って隠居の身となり、「如水軒」と号した。家督を譲った後も、如水は秀吉の側近として仕え、天正18年(1590年)の小田原征伐では、北条親子を説得し無血開城させる功績を立てた。
慶長3年(1598年)8月、豊臣秀吉が死去し、嫡男である長政が徳川家康の養女を正室としており、関ヶ原の戦いで長政が本軍を率いて東軍に貢献した。如水も領国にありながら東軍に貢献し戦後、嫡男長政が筑前国名島(福岡)52万3000石への加増移封となった。慶長9年3月20日(1604年4月19日)、京都伏見藩邸にて死去。59歳。
黒田孝高とは
豊臣秀吉には、前期と後期で2人の参謀がいた。一人は、秀吉が1武将であった頃から1軍団長になるまで支え続けた竹中半兵衛重治。もう一人が半兵衛死去後から秀吉の天下統一を支えた黒田官兵衛孝高である。
孝高よりも通称である官兵衛、もしくは隠居後の如水の名が有名であろうか。孝高は、父から若干21歳で西播最大の大名小寺政職の家老職を継承しており、姫路城代に任命されていることからも若い頃から才気があった事がうかがえる。
当時播磨の大名達は、将軍である足利義昭を京都から追放し畿内地方で勢力を伸ばす織田信長と山陽・山陰地方で絶大の勢力を持つ毛利輝元との間で揺れ動いていた。小寺家の家老である孝高は、早くから織田信長の才を評価していた。主君・政職に織田家への臣従を勧め、近隣諸国の大名達にも信長に臣従をさせることに成功した。
天正5年(1577年)の秋、織田信長は羽柴秀吉に播磨に進駐させると孝高は、姫路城を秀吉に譲っている。ところが天正6年(1578年)、播磨の大勢力である三木城主、別所長治が織田信長に反旗を翻し、信長の重臣で摂津国を任されていた荒木村重が信長に対して謀反を起こすという大事件が起こる。
このとき、主君の政職も村重に呼応しようとしたために、孝高は村重を翻意させるため村重の居城である有岡城に乗り込んだが逆に囚われ、1年の間土牢に押し込められてしまう。村重が討たれ救出された時には、孝高は歩行が不自由になり以後障害が残ったため、戦の指揮も輿の上で行ったとされる。
主君である小寺政職も荒木村重と共に討たれたため孝高は、改めて織田信長に仕え、羽柴秀吉の与力として1万石を得る。この前後に、秀吉の参謀である竹中半兵衛が病で死去している。半兵衛自身が孝高を参謀として迎えるよう秀吉に進言したとも言われるが事実、これ以後孝高は、秀吉の参謀として脚光をあびていく。
天正9年(1581年)の因幡の鳥取城攻略では、場内の兵糧が少ないことを掴んだ孝高が兵糧攻めを秀吉に進言し僅か3ヶ月で落城させ、毛利氏の部将・清水宗治が守る備中高松城攻略に際しては、秀吉が当初行った水攻めで失敗したのを孝高の進言により成功に導いたとされている。
本能寺の変で織田信長が死去すると秀吉に毛利輝元と早々に和議を結ばせ、光秀を討つように進言した。これが中国大返しと呼ばれるような眼を疑うような速さで畿内に舞い戻り
明智光秀を討つという結果をもたらした。柴田勝家との賤ヶ岳の戦いでも大功をたて、孝高は、外交にも手腕を発揮し毛利氏と宇喜多氏の国境線を確定し、実質的に秀吉配下に加えている。
四国征伐では、秀吉の弟である秀長に従い四国に渡り、敵将・長宗我部元親の策略を見抜いた上でそれを打ち破ったと言われる。九州征伐でも功をたてた孝高は、豊前国内にて12万5000石(太閤検地後17万石)を与えられた。44歳の若さで隠居し「如水軒」と号したが実権は掌握しており、隠居後も秀吉の側近として仕えた。小田原の役では小田原城に入って北条氏政・氏直父子を説得し、無血開城させる功績を立てている。
豊臣秀吉が死去すると息子が徳川家康の養女を正室としていた縁で関ヶ原の戦いでは、東軍に加わり本軍の嫡男長政とは別に九州の地にて貢献している。具体的には、石田三成の挙兵がわかると金蔵を開いて領内の百姓などに支度金を与え、9千人ほどの速成軍を作り上げた。そして西軍の大勝である毛利輝元の支援を受けて豊後に攻め込んだ大友義統軍を次々に打ち破り、小倉城等の西軍に属した諸将の城を落とした。
関ヶ原の合戦の後、家康から勲功第一として嫡男長政が筑前国名島(福岡)52万3000石への加増移封となり、その後は政治に関与することなく隠居生活を送ったとされている。
総評
黒田官兵衛孝高は、ある種悲劇的な武将である。それは、豊臣秀吉にその才覚を恐れさせた人物であったからに他ならない。孝高の才覚は、拮抗した勢力が多い播州の大名の全てを預かる家老の嫡男という境遇と若いうちから家督、家老、姫路城を継承した責任感から育てられたのだろう。
おそらく荒木村重を説得に行き、囚われた1年で彼は確実に死を意識し、本当に運がよく生き延びた事で別人になったのではないか。実は、この一年彼は囚われていた事実は誰も知らずにいた。事実、織田信長は荒木村重方に寝返ったと思い、人質である孝高の嫡男松寿丸を殺せと命じている。(竹中半兵衛が密かに匿った)。このことで孝高は、竹中半兵衛に恩を
感じ家紋を譲り受け、竹中半兵衛死去で参謀の座も譲り受けたことになる。
彼は、中小大名の家老から成長著しい羽柴秀吉の参謀になることで自分の才能を思う様に実行していく。おそらく彼は、生きられたことに感謝し新しい主を全力で押上げていくことしか頭に無かったのではないか。それが本能寺の変を聞いた時に秀吉に言ったとされる言葉「ようやく御武運が開かれる時がきましたな」という言葉に表れていると思う。しかしこの言葉で秀吉は、孝高の智謀を恐れるようになってしまう。
しかし秀吉には、彼が絶対に必要な人物であったため側近で重宝した。孝高も秀吉の天下統一を全力で助け九州征伐を成し遂げ、ほぼ全国を統一した。そこでようやく秀吉は、孝高に領国を与える。大坂から遠く離れた豊前の中津でわずか12万5000石の加増である。
彼はどう思ったのだろう。おそらく愕然としただろう、石高の少なさでははなく、それは大坂から遠く離れた土地という事に対してである。秀吉参謀である彼には、石高よりも場所が大切であった。そしてこの事で秀吉が自分に対する恐れの大きさを理解した事は、確かであろう。
孝高が44歳の時、突如隠居して如水と号し家督を嫡男長政に譲っている。この事についても逸話がある。秀吉が家臣に「今自分が死んだら誰が次の天下人になるか」聞いたという。家臣は、徳川家康や前田利家の名を挙げたが秀吉は、孝高の名を挙げ、「官兵衛がその気になれば、わしが生きている間にも天下を取るだろう」と言った。家臣が黒田殿は僅か10万石の大名ですと答えたら秀吉は、「お前たちはやつの本当の力量をわかっていない。やつに100万石を与えたらとたんに天下を奪ってしまう」と話したといわれる。それを聞いた孝高は、即座に隠居したといわれている。秀吉が孝高を恐れて居たのは事実であったと管理人は思う。 隠居をしてからも孝高は、実権を持ち続けた。秀吉が死去し、家康が関ヶ原の戦いを挑んだ時、九州で彼は戦っていた。西軍に与した大名や再起をかける大友義統軍を撃破し次々と近隣の城を落としていった。
外部から見ると東軍のために行ったように見えるが実は、違うといわれている。関ヶ原の勝利を聞いた時、孝高はもっと三成が善戦すればよかったと話したという。孝高は、戦が少なくとも1ヶ月から数ヶ月続くと思っていた。その期間があれば九州の100万石以上の領土を支配化に入れられると踏んでいたという。そしてそれだけの領土があれば孝高の外交力で近隣大名と同盟等を結んで天下に号令できるのではないかと考えていたという。
たが実際は、合戦は衝突から僅か1日で終結してしまった。家康も孝高は、いったい何をしたかったのかと首を傾げたという。管理人は、おそらく孝高は自分が本当に秀吉が言う様な天下人の器かどうか試したかっただけではないか思う。もし自分の思い通りに事が進んだら天下を取ってみたい。でもできなければやはり自分の器は、参謀の器であると。そして自分の分を改めて確認したからこそ表舞台から潔く身をひいたのだと思う。
黒田孝高は、自分の才覚で自分を信じた主君を天下人に押し上げた最高に幸せな武将であると同時に、その才覚の為に小さな殻に閉じ込められてしまった悲劇武将でもある。しかし彼の子孫は、52万石という江戸時代有数の大大名で270年間を乗り切った。これは孝高がいたからこそでもあると管理人は思う。
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